思考ラボ
現実の世界とは
「いちいち確認しなければならないのか」と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
もちろん現実世界に何の違和感も感じず、この世界を丸ごと受け入れることができる方にとっては無駄な考えです。
理想はこのようなことにつまずかずに暮らせることが理想ですが、周りを見ればあちこちに寺があって教会があります。どこかの権力者が無理強いさせたのなら、とっくにこのようなところは無くなっていたのだと思います。
ということは目の前に起こる現実という世界に我々人類は何らかの違和感を持っていてその齟齬を埋めるための行為が宗教なのではないかと思います。
なかにはいよいよ現実世界に埋没してしまうのではないだろうかという活動もあるようですが、これとてだから間違っているということでもないようです。何を言いたいかというと目の前にある現実から起こる違和感を自分の都合で臨むように変えていこうというアプローチと、そもそもなんでこんな違和感があるのかというアプローチに分かれるのだと思います。
ここで、現象世界の違和感とは何故これほどの悲しみが現実世界に在るのかということです。
人は何故生まれて死ぬのか、死は何故これほど悲しいのか、単純に死なないようになれば悲しみは無くなるのか。ということなんですが、おそらく永遠の命を現実世界で得たとしても、この違和感を打ち消すことには成らないのではないかというのが私の思いです。
なぜならこの現実世界も起こるべくして起こっていることだと考えるからです。前回の投稿は言葉によって組み上げられた世界は所詮、思考の中でしか存在しない世界だと言いましたが、必要のない世界ということではありません。実態というのは言葉をもって認識するのではなく、感じることです。つまり、私は瞑想や座禅によって感じ取るしかないと思っています。そこで得られるのは、安心と安らぎで、現実で起こる殺伐としたニュースにあっても正気を保つための工夫だと思っています。
とはいえ、悲しみが来なければ喜びもありません。もしあなたが安心のカウチに腰を下ろせたなら、ホラーでもアクションでもロマンスでも血まみれで楽しめるのが現実世界ではないでしょうか。