2021年 月輪観
お待たせしました、制作過程からお付き合いして頂いた方いかがでしょうか、あなたの想像と違っていましたか。
違っていたということはその数だけの作品が生まれたということです。たとえ想像の中だけだとしても価値は全く変わりません。ただそこで生まれた作品はその瞬間に消え去ったということです。
そのことは私の名は欲の皮に付いているの作品にも言えることです。キャンバスに絵具で表現した作品ですが、この作品を目の当たりにされたのは世界で2000人に満たない方です。その中でも記憶に残っている方の数は・・・心細くなるので止めます。
ではなぜこのような行為を続けるのか、とても合理的な答えの出る話ではないと思います。
あえて言葉にすると好きだからやってるんです。自分を突き放した言かたをすれば、お金を払っても、労力を費やしても見てもらいたい、それが自分の喜びなんです。
「でもあなたの絵は、さっぱり理解できないのだが」と仰る方も多いと思いますが、私はそれも作品の理解だと思っています。
私の希望から言えばわからないので、わかるまでそこに留まってほしいのですが。この判定に人は時間を掛けません、本当に1秒かからないので見事です。何か月間もプレッシャーにたえながらやっと展示しても現実の壁は無慈悲と言いたくなります。
さて、私の期待通り絵の前で立ち止まってしまった方はその瞬間、望むと望まざるにかかわらず私とは目に見えない繋がりが出来ています。または集合意識と繋がっている状態の人です。あくまでも意識の深いと事での話です。
話は変わりますが、美術展のいいところはタイトルを見る前に作品が目に入る所です。何故かといえば、そのことで我々が常日頃ものの理解を言葉から始めてしまうことへの楔になるからです。出来れば、なるべくこのような展覧会では目に見えたそのままの在り様から感情の動きをさぐってほしいのですが、要は美術鑑賞を教養という檻に閉じ込めてしまうのはもったいないということです。
それではあえて言葉によるタイトルについてのコメントをしたいと思います。
この絵のタイトルは月輪観と言います。真言宗の瞑想で月のイメージを心に思い浮かべるためのツールです。
瞑想の方法は、最初に紙に描かれた円相からイメージを自分の中でどんどん膨らませていき、最終的には宇宙全体にイメージを膨らませて自分の中に宇宙全体を取り込んでしまいます、そこからイメージを逆にたどって自分の体に治まるようにします。最後は、元通り紙の円相にイメージを戻します。
実に壮大な瞑想法ですが、私がそのような瞑想について表現しようとしていたのかというと全くそんなことはありません。タイトルが決まって自分で納得した、というか表現力が乏しくて残念なのですが、一言で言えば泥縄的制作工程です。何故泥縄的な制作にこだわるかといえば私自身も鑑賞者の一人と思っているからです。本当にめんどくさい人です。なのでこの記事を読まれた希少な方には心より感謝いたします。また我が同胞として感謝しています。