今日は好日
2022年 6月9日 意識は脳で創られるのか?
昨晩養老孟司のユーチューブ動画を見た。日本でこれ以上の権威を持つ方も限られれると思うのだが、昔からTVでおなじみの方で話のテンポも内容も一流だ、さてその講義の中で死についての質問があって、氏の回答は「分からない」というものだったが、補足に真言宗のお寺さんの話があった。ある日のお葬式で参列者から、突然同じような質問を受けたお寺さんは、「死んだら終いだ」と言い残して式場を去ったそうだ。まったく身も蓋もない話ばかりだが、医学界の権威は 「分からない」といい、仏教に携わる方も「それで終いだ」という、いずれの答えも異論をはさむ余地は無いのだが、それではつまらないというのが私の思いだ。とはいえこの問題に彼ら以上の的確な回答は望めるはずがないとしたうえで、これからご意見無用の私の思いを展開しようと思う。
まずは、死ということにおいては、肉体と精神は一体と思うか、別々にあるとするかだ。医学的に脳が意識を創造していると考えれば、意識は肉体と共に滅びることになる。ところが世の中で起こることは、それだけでは説明のつかないことが山ほど起きてくる。あの世や、生まれ変わり、テレパシーなどの超常現象と言われる現象は、太古から確認されているにもかかわらず、いまだに科学とは相いれない。
ではこのような話は、いつまでも科学の世界と平行線をたどるのかと言うと、最近はその溝が少しづつ狭まってきているように感じる、そこで私が肉体と精神をどのように捉えているかと言えば、肉体は精神に従属するものとして捉えている、例えるとすれば肉体は精神を載せる舟のようなものだ。そしてこの精神は絶対的な無意識という集合意識の変容した1面でしかない。
つまり、我々が感じる個性とは、無意識の変容した1面にすぎないのだ。このような考えに立てば、いにしえより信じられてきたあの世の存在であったり、魂の生まれ変わりや、テレパシーなども容易に説明が付きそうな気がする。
この有意識が現象界に影響を及ぼして物質を具現化しているとすれば、物質とは有意識が起こした個性の表現と言えないだろうか、つまり、死とは有意識から無意識への個性の回帰であり、変容の終止符ではないかと考える。
話を整理すると死を考える場合2通りのアプローチが出来る。1つ目は肉体と言う物質が精神意識を形成しているために、肉体が亡ぶと同時に意識も消滅するという従来通りの考え。2つ目は私が考える死についての見方だ。
最初に肉体は意識に従属する。この場合精神、意識、魂は同義であると捉えているが、現世に自分が誕生したということは無意識が有意識に変容して物質が創造された状態である。このような立場に立って改めて死というものを考えた場合、肉体は消え去るかもしれないが、それを表現していたところの意識は変容を止めて、有意識から無意識にもどったただけのことではないか、つまり無意識から現象の世界を眺めると生まれることも無ければ死ぬことも無い形が変わっただけの世界ではないだろうか。