今日は好日
2022年 8月17日 マイノリティー
巷では、おもにLGBTと言われる性の少数派を示すことが多い、私はマイノリティーにたいするメジャーの配慮を訴えているものと理解しているのだが、私としては自分がそのような深刻な体験をしていないために、正直簡単には受け入れられていない。
ところが、最近私の周りでも、この言葉をよく耳にするようになってきたので、このへんで自分の考えを整理したくなった。
ただし、この問題の難しいところは、個人の問題だけではなく、社会制度の在り方にも少なからぬ影響を与えてしまうことなのだ。
そもそもこの問題には、2つの考慮すべき問題がある。まずは肉体の性差と精神的な性差の不一致がある場合、現在は性転換手術や戸籍の変更が制度として認められている。そしてもう一つにはこのように外見とは異なる性的嗜好を社会はどのように受け止めるべきかという問題だ。
実際、外見や社会制度に対する制度の見直しは驚く速さで整備されてきた。それでは、一方の性的嗜好についてはどうかという問題が残されている。私はここについては、正直個人の自由の問題ではないかと思っている。なぜなら、この問題は個人の嗜好の問題というよりは信仰の問題が大きく関わってくるからだ、信教の自由を保障する日本国憲法のもとでは、この問題にこれ以上介入することは許されないのではないだろうか。
またこの問題を取り上げるにあたって一番危惧されるところは、人口の問題だろうと思われる。ただでさえ人口が減っている日本でこのようなことを一般化させて良いのかということを危惧しているのだ。もちろんお墓や家族というつながりも考えなければならない、このようにこのことを社会が受け入れるためには、社会を根底から変える覚悟が必要になる。
そこで考えられる一つの解決方法は、これまでの家族という考え方から、志を同じくした小さな集団としての生存を考えてはどうだろうか。
つまりその様な集団による集団保育や自立した農業、そして我々を育む大地との繋がりにより、小集団として地域と密着した繁栄を図っていくことだ。さらに人口減少がこのまま進めばハーレムを生活に取り入れることも必要になりそうだ。
或いは医学がどんどん進歩することでカタツムリのように両性具有という人類が誕生する可能性も出て来る。とにかくあれもダメこれもダメの世界はわたしには息が詰まる、「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」くらいの感性で生きられないものだろうか。