今日は好日
2022年 8月22日 どちらを手放すか
先ほど白隠禅師の図録を見ていたらテナガザルと思しきかわいらしい絵があった。何を描いたのかと解説をみたら池に映った月を掴もうとする猿の公案だとされていた。その意を勝手に想像すると、月はおそらく理想や憧れをさしているのではないだろうか。
もしも此処に描かれている猿がこの月を追い求め、さらに手を伸ばすと猿は池に落ちて池に沈んでしまう。つまりこの絵が言わんとするところは、この月はあくまでも池に映った実体のない影であって、いくら追い求めても所詮実態を捉えることは出来ない。
それよりも今その手に握りしめている木の枝こそが実態なのだ、妄想を手放し真実の世界に向き合うことこそ安心で幸せな世界に暮らすことができる。なるほどいい噺だと満足していたところだったが、すぐさま、また別な見方を拾ってしまった。
というものこの絵と似た絵に、たしか長谷川等伯の絵がある筈だと思い等伯の猿猴図を探していたら、その解説に猿猴図はお釈迦様の説法からの引用だと書かれてあった。そこには、猿が掴もうとしていたのは、井戸に落ちた月だとあった。ということはそれが猿の勘違いであったにせよ、猿の取った行動は単純に愚かな行為と言い切ることが出来るのだろうか。
たとえそれが残念な結果に終わったとしても、猿が自分をも顧みず月を救おうとした行動は称賛されるべきではないだろうか。そう思うと私の心はこの絵の通り、ここから全く動くことが出来ないでいる。