今日は好日
2022年 9月29日 いじめ
これの恐ろしさは、本人の自覚無しにいつの間にか加害者に成り得ることだ。私が中学生の時いつも一緒に遊んでいた4人の友達がいた。そのうちの一人は転校生でとても才気があった。4人は学校が終わると集まって仲よく遊んでいた。そんな楽しい友人であったが、最初の私の印象はまったく違うものだったらしい。
私は地元の学校だったので、周りは小学校からの顔なじみだ、私はほとんどの子供の家で遊んだ記憶があった。
そんな閉鎖的な環境であれば、転校生とはどうしてもお互いにストレスが生まれて来るものだ。知らないうちにその溝は大きくなって外側からも不穏な様子が分かるようになってきた。私はこのような状態を見過ごすことが出来なかった。私は自分からその転校生と関わりを持とうとしたが、その関わり方が友人には暴力を振るわれたと受け取られたらしい。
私にとっては小犬がじゃれつくイメージで飛び蹴りや体当たりをしたりしていたが、当人に後から聞くと単に暴力を振るわれていたと思われていたらしい。私は学級の中で孤立していく彼を見て、なんとか打ち解ける切っ掛けにしようと思ってとった幼稚な行動だったが、彼には暴力的な加害者としか見られていなかったようだ。
ところで最近のいじめは、腕力よりもSNSを使った言葉による暴力が主体らしい。これではいくら腕っぷしを鍛えても対抗することが出来ない。実際女性レスラーの方がこのような被害に逢われて悲しい結果になってしまた。ネガティブな言葉の暴力とは、加害者に自覚が無くても、かくも恐ろしい結果を及ぼしてしまうということだ。
では、なぜ言葉がこれほど恐ろしい結果を招くのか、その第一にはそのしつこさがある。そのうえ合理的な解決が全く望めないことも、言葉によるいじめの大きな特徴だ。一般的な社会では意見の食い違いがおこれば、妥協という試みが行われる。あるいは明らかに相手の正当性が確認できれば自分の意見は引っ込めるということが社会的な議論である。議論を尽くすことに意義があるのはこのような議論が成立する場合である。ところがいじめの加害者には、如何なる弁明も受け入れないという特徴がある。むしろ、自分の望まない答えは、聞かなかったことにされてしまう。
そしてもう一つの恐ろしい特徴は仲間を引き入れるという手法だ。つまり、ターゲットをどんどん周りから切り離し孤立させるような操作がされていく。この場合、事実はまったくどうでもよい、ただ声を張り上げ仲間を増やすことに終始するだけだ。そこには正しさの議論も無ければ相手の立場を思いやることも無い。当然のことだがこのような恐ろしい手法を使って導かれるのは滅びの道しかないのだ。
ところで、先日の国葬反対者にはこのような特徴が重なってきて恐ろしい気持ちになる。凶弾に倒れ涙にくれる遺族に対し、あのような残酷な行動に及べるというのは、私にはどうしても理解が出来ないことなのだ。今思い出しても国会でこのような人たちに囲まれながらも、日本のために希望を捨てず職務を全うされた安倍晋三氏のご冥福を祈りたいと思う。