今日は好日
2022年 10月20日 今 命があなたを生きている
何年か前、こんな横断幕がお寺の屋根からぶら下がっていた。不思議な言葉だと思ったが、今思うとこれこそすべてを表す言葉だと思っている。私はこれまで、現状打破という言葉を耳にしながら暮らしてきた。理想の未来を手に入れるためには、常に努力を怠ってはいけない。おかげで世の中はとんでもなく変化したが、なぜか世の中が良くなったという実感がわかない。にもかかわらず、どんなメディアを覗いても今の自分は至らない存在で理想の未来に向かって努力することを強いている。
ところがこの言葉によると、至らない存在と思っている自分は、命という完全なる存在が生きているのだと言っている。つまり今生きていると思っている、あなたという存在はすでに完成された存在だと言っているのだ。こんなことを言ったら明日から誰が寺の門をくぐるのかと思うが、それでもこの宗派は、この横断幕をぶら下げたいと思ったらしい。
とはいえ、私自身に置き換えてみれば、文字にしろ、絵にしろ自分の技術の至らなさを感じる毎日で、とても現状を肯定できる状態ではない。目を覚ますたびにああなりたい、こうなりたいと思う連続だ。つまり「私はこのままではいけない」という思いで毎日暮らしているということなのだ。だからこそ日々の暮らしは不満で、理想の姿になれない自分は、考えるだけでもみじめで哀れな存在に感じる。
実は仏教の解く無我とは、このように哀れな自分の消滅にある。もともとすべては完全な存在の表れで、自分を卑下する自分とは妄想の自分ととらえられている、ではなぜこれほど不完全な世界が、次々我々の目の前に起こってくるのか、身も蓋もない話だが完全なる存在は不完全な世界を創造し体験しようとしているのではないかというのが私の考えだ。つまり完全なる存在は完全なるがゆえに、不確実な世界をも取り込もうとしているのだ。言い換えると、あらゆる可能性に向かっての経験をさらに追い求めているということだ。
ではこのような環境にあって、凡夫といわれる存在の我々はどのように生きるべきなのかと考えてしまう。答えは大いなるものに、すべてをお任せするほかないのではないだろうか、結局我々は大いなる存在の生きざまをただ見守るしかない。心に浮かぶ様々な衝動も結局大いなる存在の思うところに違いないからだ。
とはいえ、できることなら大いなる存在さん、私はもう少し字が上手くなりたい。