独立自尊 奥の細道
俳句についてのあれこれ
そもそも俳句という言葉が確立したのがこちらの正岡子規以降になります。では芭蕉の時代はどのように呼ばれていたかというと俳諧と呼ばれていました、ところがこの俳諧、結構懐の深いところがありまして、もともと和歌の流れをくむものですが芭蕉の時代では、歌のやり取りで思いを伝える遊び心の多い楽しみでした。そこから座芸という呼び方も生まれています。
このような俳諧は時がたつにつれ楽しみ方も多様化し、様々な流派が作られます。その流派によって好まれる歌のスタイルなども、片歌、短歌、長歌のように歌の文字数で様式が変わります。さて後に俳句と呼ばれる様式は短歌と呼ばれる様式の一つから派生しました。5・7・5・7・7の形で詠まれる歌ですが、最初の575を発句、後の77を脇句と言い、発句に対して脇句で受ける連歌の様式が俳諧で流行ります。
このような遊び方が江戸で流行り貞門、談林などいくつかの流派が起こりましたが、芭蕉はその中で蕉風と呼ばれた流派の開祖にあたります。蕉風の特徴としては、発句の575を尊び不易流行の在り様を表現することに重きを置かれました。この流れを正岡子規が受け継ぎ連歌を気楽に楽しむ世界から独立した形で写生を旨とし、芭蕉が尊んだ発句の世界を俳句と称したことから俳句は生まれました。ということは俳聖と呼ばれる芭蕉の時代には俳句はまだなかったことになります。
このような蕉風についての記述は服部土芳の三冊子に記述されています。このことは向令孝禅師が禅サンガで語っておられました。このように芭蕉はこの時代の大変な有名人で、芭蕉が訪れたということは当時から大変名誉なことだったろうと想像されます。