独立自尊 奥の細道
五月雨の降り残してや光り堂
中尊寺金色堂訪れた方も多いと思います。訪れたことのない方はこの白い建物は何だろうと思うかもしれません。この建物はコンクリートで出来た覆い堂あるいは鞘堂と呼ばれるものです。
この覆い堂の中に金色堂の本体があります。阿弥陀如来を中心に据え極楽浄土の世界を表現しています。さてこの建物は1124年藤原清衡によって建立されましたが、使われているほとんどの部材が当時のままの木造建築です。
金ぴかの建物としては金閣寺が有名ですが、金閣寺は昭和に焼け落ちて建て替えられています。この建物も何度か改修されてきましたが、ほぼ芭蕉が観たものと同じです。
ところで、先ほど覆い堂の写真を見て頂きましたが外からは覆い堂の姿しか見ることは出来ません。このコンクリートの建物は1965年の改修の際建てられたのですが、驚いたことに鎌倉時代に作られた覆い堂も当時の姿で移築されています。
想像図ですが、芭蕉訪れた時は、移築前の木像の覆い堂でした。
ここから本題の「五月雨の降り残してや光り堂」についてです。ほとんどの解釈では金色堂が風雨にさらされても輝きを失わないのは、五月雨が降り残ったためだ、となっています。五月雨とはあらゆるものを腐らせる存在で腐らないのは、五月雨にあたらなかったからと解釈されているようですが、これまで述べたようにそもそも金色堂は木造の覆堂で覆われていました。
しかも、これまで直に風雨にさらされて続けて来た木造の覆い堂も、創建当時のままの姿で残っています。
また、金色堂は金箔張りで湿気に弱いとの捉え方もあるようですが、そもそも金箔は漆を塗った後、漆が乾かないうちにその上から貼られるものです、つまり漆が金箔の接着剤代わりになるのですが、ということは金箔の下は総漆塗になっているということです。漆塗りといえば無垢の木材に比べれば食器に使われるほど水には強いはずで、その上に錆びることない金箔が貼られているのですから、防水加工技術を結集させたような建物です。とわいえ外気にさらされ芭蕉が訪れた時はすでに500年の歳月が流れています。屋内であっても装飾の様子は痛みが進んでいたかもしれません。ですが、そのことをもって五月雨が金色堂を腐らせることを芭蕉が心配したという解釈は私にとって納得しがたいものがあります。
さて私にとってこの句にはもう一つ疑問に思うところがあります。それは光り堂という表現です。芭蕉は何故金色堂とせずあえて馴染みの少ない光り堂としたのでしょうか、つまり光り堂とする場合と金色堂とする場合ではイメージを伝える情報量が全く違ってきます。
例えば目に見える光は七色ありますが、光り堂とされると光についての情報が少ないために、どんな色の光だろうということになり情報を伝える力はむしろ弱まります。
このようなことから類推すると正岡子規には悪いのですが芭蕉はものごとの見たままを俳句で表現しようとしていなかったのではないかと思う様になりました。つまり、写生という表現に重きを置いていなかったのではないかということです。
では、ここからこの句の私の勝手な解釈になります。
そもそもこの金色堂に祭られているのは奥州藤原氏3代のミイラで、そこに泰衡の首も加わります。まずは中心に中尊寺を建立した清衡、基衡、義経を庇護した秀衡です。つまり一度は頼朝に滅ぼされた、奥州藤原氏の4代に渡る一族の威光が五月雨のようにしとしとと断続的ではあるにせよこの中尊寺金色堂から後世に伝えられているのではないでしょうか。
そのような観点から、降り残してやの解釈は止むの未然形と打消しの助動詞によって五月雨が何処までも残ってほしいという願望と解釈できれば五月雨の表現こそ奥州藤原氏の栄華の伝承を表し、その輝きについて金色堂を光堂と呼ぶことによって暗示しているのではないかというものです。