独立自尊 奥の細道
五月雨を集めて早し最上川
この句も大変有名な句です。しかもこの句を詠むだけで、目の前に荒ぶる最上川が浮かんでくるようです。
「以上」としてしまうとこれ以上記事が書けません。これでは、本末転倒というものですが、今までの流れからよけいな解釈を入れようと思います。
さて、この句の頭に五月雨という言葉が使われています。平泉の句では五月雨を奥州藤原氏の威光ではないかという解釈をしました。では、この句にそのようなことが関わってくるのでしょうか、私はなぜ、芭蕉が船旅を望んだのか気になりました。この季節この句にあるように梅雨明けで川は増水していて川下りは結構危険なはずです。最上川といえば、日本の河川の中でも普段から急流に指定されるほど流れが速く、また川には3か所の流れのはやい浅瀬があります。今は、エンジン付きの舟ですが当時は流れに任せて船頭の竿裁きがすべてです。芭蕉もその時の恐ろしさを手記に残しているほどなのですが、芭蕉はあえて、川下りに臨みます。
実はこの思いこそ義経への熱い思いに繋がってきます。最上川を下るルートは羽黒山への参拝ルートになるのですが、その途中平安の時代から名所と詠われた白糸の滝があります。この白糸の滝は義経記によると郷御前が絶景に感じ入り「最上川 瀬々の岩波 堰き止めよ 寄らで通る 白糸の滝」という詩を残したそうです。
また、ここで、義経と共に京都から落延びて来た一向に常陸坊海尊という僧がいます。この僧は旅の途中、怪我が悪化してこの地で義経一行と分かれます。この地にとどまった念西が体を休めたところが仙人堂です。
この常陸坊海尊ですが中村常陸入道念西といい、後に再び義経と高館で合流するようです。そこで義経の子、経若を託されます。不思議なことに義経最後の戦いである衣川の戦いの時には、念西は何故か立石寺にお参りに出ていて無事だったそうです。ひょっとしたら預かった義経の子を育て上げるため、あらかじめ戦の場から外されたのではないでしょうか。この時義経から託された経若を自分の養子として育てます。名前を中村朝定と名乗りますが、この話が事実なら、義経の子息が頼朝亡き後も生き残っていたということなので驚きです。
だいぶ横道にそれましたが、この念西が留まった仙人堂ですが、白糸の滝同様、陸からは訪れることが出来ません。ここを訪れるためには船で行くしか方法がないということです。芭蕉は命もかえりみず、きっちりこの仙人堂を訪れています。
$
このような旅から生まれたのが「五月雨を集めて早し最上川」の句ですが、この句は当初「五月雨を集めて涼し最上川」と詠まれていたそうです、ところが実際に川を下った後に、涼しを早しという言葉に替えています。ということは川下りの前から、この句が出来ていたということなのでしょうか、もしできていたとすると芭蕉は実際の体験よりも「自分の熱い思いからこの句を詠んだ」とは言えないでしょうか、また当初の涼しという言葉は前回の「涼しさを我が宿にして寝まるなり」という句にも使われていました、ひょっとしてこの涼しさという言葉にも芭蕉の何等かのメッセージを感じることが出来ないでしょうか。
調べてみると、この涼しという言葉の意味には、浄土や潔さという意味もあるそうです。だとすると、この言葉は芭蕉の藤原氏や義経に対する回向のようにも感じます。