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独立自尊 奥の細道

2024年7月18日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

出羽三山 (前編)

今回出羽三山にまつわる4つの句について前編、後編に分けて自論を展開しようと思います。これまでもあちこちのブログを参考にさせて頂いておりますが、何しろ勝手な解釈の根拠にされたとなると、ご迷惑の方が心配になりますので、ご了承いただければと思います。

さて今回もなまじ義経、藤原氏の関係性について強調してきたために、その関連性を確認するための時間が結構かかりました。前回は白糸の滝と義経との関係から増水した最上川の旅になったと書きましたが、今回の句もその白糸の滝との繋がりがあるのではないかという考察です。

そのためには義経の伝承を記述してから先を進めてまいりたいと思います。

まず義経一行は京都から日本海周りで藤原秀衡のいる平泉まで落延びようとします。義経一行は頼朝の追手から身を隠すため山伏の姿で旅をしています。

この時義経の正妻郷御前(さとごぜん)は身ごもっていて旅の途中出産することになるのですが、この伝承が尿前の関や鳴子温泉のいわれとなります。そんな一行が鶴岡の街に入ると、疫病で何人もの子供を失い、最後の子供まで病で失いかけている地頭の使者と出くわします。何とか加持祈祷によって子供の命を助けたい地頭は、使いの者に祈祷のできる山伏を連れてくるよう申し付けたのでした。

さて偶然義経と出会ったこの使いは、義経一行が京都から来た山伏だと知ると、義経にすがりつきます。何故かといえば吉野は修験道の開祖役行者と大変所縁のあるところです。その吉野から来た山伏であれば、地元出羽の山伏よりも霊験あらたかだろうという思いがあったからです。

使いに頼まれた義経には、そんな祈祷など出来るはずもなく「旅を急ぐ」と言って依頼を断ろうとしますが、弁慶が割って入ります。ここを治める地頭といえば、藤原氏とのゆかりのある方に違いないということで、勧進帳さながらの立ち回りでこの時も奇跡を起こします。なんと地頭の子の病が治ってしまうという奇跡です。このようなことから、この地方のあちこちに京都に本山を持つお寺の分院が建てられます。芭蕉が宿泊した南谷も京都熊野に本山を置く大雲院寺の南谷別院です。

芭蕉は奥の細道にここで詠まれた4つの句を載せていますが、今回は「ありがたや雪をかをる南谷」という句を取り上げたいと思います。

ところで芭蕉が訪れたのは旧暦では6月なのですが、現在のカレンダーにすると7月になります。つまり梅雨明けの真夏に芭蕉は訪れています。なのでいくらなんでも雪を詠むのは時期外れのように感じます。

宿泊先の南谷は羽黒山の中腹辺りにありますので標高200メートルほどのところです。山の中腹とはいえ、標高はそれほど地上と変わらないところですので、芭蕉が寒さを感じてこの句に雪を入れたとは考えづらいんです。私はきっとこの句に雪という文字を、どうしても入れたい芭蕉の思いがあるのではないかと思いました。

そこで、この句を展開してみると、この句には2つの名詞が使われています。雪と南谷で、南谷とは先ほど説明したように義経の伝承と繋がっています。ではこの季節外れの雪ですが、この雪については次の参詣先、月山についての詩であれば全く問題ありません。月山はさすがに2000メートル近くある山だけあって、その頂には万年雪の留まる大雪城があって、標高の高い山頂では実際に雪のかをりがしてきても不思議ではありません、ところがなぜかこの句は南谷という標高の低い羽黒山の中腹で詠まれています。無理やりこじつけると、次の句にあたる月山への橋渡しのための仕掛けで、この句は次の山への展開を匂わせたかったのでしょうか。

ここからは、私のそとうなこじ付け解釈になります。芭蕉は前回「五月雨を集めて早し最上川」の句で説明した白糸の滝と関連させるために「あえて雪の文字を使ったのではないか」と私は考えました。というのもこの句には、残りの3つの句には見られない特徴があるからです。残りの3つの句にはそれぞれ羽黒山、月山、湯殿山が対応していることがわかります。ところがこの句にあるのは何故か南谷です。

義経記によると義経一行は出羽三山参詣に向かうつもりでしたが、郷御前が急に産気付き参拝をあきらめて、先を急ぐことに成ります。そこで、弁慶ひとりが一行を代表して出羽三山に参詣することに成りました。

ところで、産気づいた郷御前を気遣い先を急ぐ義経は、遠くから出羽三山を拝礼し、舟で最上川を遡り平泉を目指します。そうまで先を急いだ義経ですが、何故か白糸の滝が気になり白糸の滝に立ち寄ります。この時、義経一行は5首の詩を残しています。いくら名所と言ってもいきなり、これだけの詩を残したということは、そこに何か重大な秘密がありそうです。芭蕉はそのことに気づいて後世の誰かに奥の細道を通じて何かを伝えようとしたのではないでしょうか。

ではこの雪と白糸の滝との関連性についてです。

芭蕉が20代の頃詠んだ句に、「餅雪を白糸となす柳かな」という句があります。(竹島智子氏の論文を参考)

雪が柳に降りかかって白糸のように見えると読んだのでしょうか。ではこの句を参考にすることで雪と白糸の滝を繋ぐことが出来ないでしょうか。芭蕉が南谷と白糸の滝を繋げたいと考えたのであれば、あり得る話だと思います。よっぽどマニアックな解釈になりますが、雪のイメージとこの句を重ね合わせて「ありがたや雪をかをる南谷」を詠んだとすれば、この句にある「ありがたや」は吉野にある南谷から来た山伏に扮した義経が起こした奇跡、また一行が訪れた白糸の滝を雪の表現から臭わせているのではないかと思っています。

とっても無理なこじ付けをしているようですが、俳諧などの楽しみ方には、掛け言葉や意味言葉を使い色恋に留まらず、世評についても論じ合うような楽しみ方がありました。それが江戸の粋だったんですね。