独立自尊 奥の細道
出羽三山 (後編)
涼しさやほの三日月の羽黒山
さて出羽三山の後編ということで、実はこの句の解釈が一番大変でした「涼しさ」は藤原氏または義経への回向だ、などと言い切ってしまった手前何とか、そこを関連性を見つけねばという大変窮屈な状況に、自分を追い込んでしまいました。前回は鈴木清風に救われましたが今回はなかなかヒットしません。義経さえも羽黒山は訪れていないのです。ところが、この羽黒山の参道に私の探す答えがありました。
この羽黒山の頂上に繋がる参道は、2446段もの階段を連ね3つの坂で区切られ、下の方から1の坂2の坂3の坂となります。
その南谷に繋がる2の坂に弁慶にまつわる伝承がありました。実はこの2の坂のことを「弁慶油こぼしの坂」というそうです。弁慶がこの羽黒山を参詣した際、社に奉納するために油を携えて来ました。ところが2の坂があまりにも急だったために、その油を溢してしまったという伝承から、この坂を「弁慶油こぼしの坂」と言われるようになったということです。ということで今回もなんとか、お詫びを入れずに済みそうです。
さてここから芭蕉は延べ40キロ近く文字通り山越え谷超え出羽三山の修験道を歩む事になります。そのためこの日は、月がほのかに望める早朝、羽黒山の頂上を目指しました。とはいっても芭蕉の滞在する南谷別院は2の坂を上り切った山の中腹ですので、山頂までは30分もかからない距離です。
また、この句を詠んだのは2の坂の途中と言われています。となると芭蕉は一度、羽黒山の麓まで降りて、再び羽黒山を上り直したのでしょうか、これではあまり合理的な解釈とは言えません。となると芭蕉の紀行文とは、時系列が合わなくなります。
雪の峰いくつ崩れて月の山
この句は視覚的で自然の雄大さを感じさせてくれます。まるで雲海に浮かぶ夜の月山が目の前に浮かんでくるようです。特に「雲の峰いくつ崩れて」という表現は、鑑賞者に対して眼下に広がる雲海が刻々と姿を変える様子から、時間の経過や月山の頂上に吹き渡る風の強さまで感じさせてくれます。
また紀行文には、到着が夜になったため笹の葉を敷いて横になり茎を束ねて枕としたように書かれています。てっきり野宿をしたように思ってしまいますが、頂上にはちゃんと宿泊施設があり芭蕉はそこに留まったようです。ということは野宿したと、とられかねない文章も漂泊の旅の演出でしょうか。
因みに江戸時代には、庶民が旅を楽しむ文化が定着してきます。安藤広重や葛飾北斎なのどの一流の絵師が、各地の名所を描き版画を出版しているのは、庶民の旅への憧れがどれほど強かったかということを表しています。当時からお伊勢参りが有名ですが、この出羽三山へのお参りも大変人気がありました、年間10万人以上の参拝者が訪れたそうです。
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
さて最後に湯殿山の句が来るのですが、今までの2つの句には山の文字が入っています、ところがこの句にはありません。私はそれにもちゃんと意味が有ると思っています。実はこの湯殿山を参詣するにあたっては厳しいルールがあります。それは湯殿山をお参りした場合そこで起こったことは決して口外してはならないという決まりです。これが「語られぬ」という言葉にあたります。
ということで、この句にある湯殿とは湯殿山のことではありません。では何なのかということですが、実は修験者が入山するときは、どなたでも参拝する前に足湯につかることが出来ます。ちなみに湯船のことを湯殿と言いますので、参拝前に足湯につかったことを詠んだ句ではないかというものです。大変つらい解釈になりますが、芭蕉はもっと大変だったと思います。なので「袂を濡らす」についても、湯殿山の参詣が感動的だったという感想ではなく「足湯に使ってボーとしてしまい、ついうっかり袂を湯につけて濡らしてしまった、おちょこちょいな私と詠んでくださいね」と言われているようです。