2022年 「何者でもない存在」
結局私が求めているのは、海中で海水を握りしめるようなもの、苦労の割には何も残らないので、お終いとしたいところだ。
ところが、それでは海水を求めてその手に握り締めようとしている、その手とは誰のものなのかという疑問が湧いてくる。
それこそ自我という縛りに違いない。この自我こそ欲望の根本原因のように言われているが、いっその事そこも手放してしまえばどうなるだろうか、きっと欲望は綺麗さっぱりなくなってしまうだろう。
自我というものが無ければ、目の前に起こっていることはただエネルギーの変化でしかなくなる。
私たちが認識する物質の移動や変容に物語が生まれてこないのだ。つまり現象というものに言葉で意味づけすることによって、はじめて私たちの理解する世界が出来上がるということだ。
言い換えれば私たちが感じる水の冷たさや水の重さも言葉の表現であり、魚の群れやサンゴに降り注ぐ天の光も紛れもない自分という自我を前提とした言葉の世界だ。
そのように考えると、自分という自我の本質は言葉であり、自分とは何者かと問われて、言葉にその答えを探しても、見つかる答えは自我でしかないということだ。
では、言葉で表される自我が自分の本質かと問われれば、それは表面的な話で本来はすべてを飲み込む海のような存在であり、何かしらの縛りでは表現できない存在で、結局言葉の世界を超越したものであれば言葉にはならない存在ということになる。(参考)