今日は好日Vol.2
2023年 6月19日 儚き美しさ
美意識も国によってかなりの違いがあるそうだ。先ほど書家の土井煌舟先生の和歌に関する動画を視聴させてもらった。動画では仮名の書き方を墨の擦り方から丁寧に解説されている。ところで仮名といえば散らし書きと言われるのだが、あの美しさは世界的にみるとかなり特異な美しさなのだそうだ。というのも漢字の本場と言われる大陸の方には、どうしても納得のいかない感性なのだそうだ。とはいうものの大陸にも草書と言われる、ミミズのような字がありそれをさらに崩した狂書という書き方まである。そのため自由な書き方が理解できないというのも不思議に感じてしまう。
どうやら、その違いにはもっと深いところに溝があるのだそうだ。動画ではシンメトリーを好む大陸の感性とバランスをとって余白を楽しむ日本の感性があり、その違いの原因になるのは本質的に物事を支配してにコントロールしようという感性と日本人のように異質な物との調和を楽しむ感性との違いがあるのではないかと説明されていた。なるほど書の世界にもそれほど好みの違いがあったのかと思うと思わず動画に頷いてしまった。
というのも世界のコレクターの間で日本の書はあまり重要視されていないということを以前聞いたことがあるからだ、そのことを聞いた時は、きっと本場とそれを受け入れた国の違いで、結局オリジナルとコピーの違いではないかと思っていたが、それだけではなくもっと深いところに好みの違いがあるようだ。そういえば漢字が日本に広まる切っ掛けになった仏教にも、海を渡ったとたん、微妙な違いがあるのではないかと思うことがある。私は専門家でも何でもないので、こんなことを言うのもどうかと思うが、以前このブログで紹介した達磨大師によって伝えられた禅宗について、私はその目指すところは絶対的な無の世界だと思っている。つまり無の世界にこそ、ものの本質があるということで、それ以外のことは本質を惑わす幻想にすぎないというものだ。
ところが、日本に伝わった仏教にはそれとは真逆の感性を感じる。どういうことかといえば絶対的な無の世界というよりは、移ろいゆく時空の世界にフォーカスしているのではないかと感じるからだ。このブログで独立自尊奥の細道に登場する西行法師は、結局移ろいゆく自然の在り方に常々フォーカスして生涯旅をしていたと思うからだ。つまりそこから感じられるのは、日本古来から受け入れられてきた、「のもののあわれ」という感性なのだ。
このことについては他の日本の文化にも見つけることが出来る。その一つとして禅の作法から始まったお茶の世界にも同じ感性をみることが出来る。それは茶室のしつらえにも表れていて茶事の中で時間を演出する方法として用いられる、どのようなことかといえば、亭主は茶事が進むにつれて細かく窓の開け閉めを行うことによって、閉ざされた茶室でも太陽の傾く様子を演出し時間の経過を客人に印象付ける。これは不動の世界を表現しているというよりは、流転する世界に寄り添い、そのことを積極的に味わおうということなのではないだろうか。ともすれば時間の経過は肉体の衰えや消滅を感じさせるのだが、日本人はその一見残酷とも思える時の流れに身を任せようとするのだ。
この感性は大自然の在りようを信頼し受け入れればこそ生まれる感性なのだが、世界では極めて稀な感性なのだそうだ。世界には生命の貴重種を守ろうという運動があるが、私は文化も種を守ることと同じくらい大切なことと思っている。何故なら日本文化は日本の自然という、世界的にも大変恵まれた自然環境から誕生した貴重な文化だからだ。