今日は好日Vol.2
2023年 9月24日 杜は命だ
命とは何かと考えれば、その反対に死とは何かという問いがすぐに浮かんでくる。私は命とは生と死が繰り返されるあり様のように感じている。しかもその命は個別の生や死だけで完結しているものではなく、常に別の命との関係性によって存在している。その関わり合う場が杜という生命なのではないかと私は思っている。
一般的にこのようなことを生態系というそうだが、その生態系ともいえる杜は、ただ単に木がたくさん生えているところということではなく生命の循環が何億年もの歳月を経て完結されてきたものだ。その見事さは、そこに暮らすいかなる命もその係わりから漏れること無く、すべての命がそこで繋がっている。このことを古代の日本人は恐れ敬い心の支えとしてきたのだ。だからこそ日本人のあいさつでは、いまだに「おかげさま」という言葉が使われている。このような挨拶言葉があるのは、自分には認識がなくても見えないところで人間は必ず関わり合いを持っていて、その見えない関わり合いの中で自分が生かされていることを祖先から教えられてきたからだ。
ところで、日本人は明治の終わり都会のど真ん中に人口の杜を造ってしまった。木を選び土を選びありとあらゆる工夫を凝らしての大工事だったそうだが、そのかいあってこの生態系は150年もの間、人間の手を入れずに自立して命を育んできたのだ。このことは、いわゆる造園の仕事とは全くの別のもので、一見この杜は大規模な造園業の成果のようにも思われるが、これは言い換えれば人間の手によって人口の生命を生み出したことに他ならない。
つまり明治神宮の杜とは自立した生命そのものなのだ、ところがいま、この150年続く命の杜が目先のお金儲けのために無残にも破壊されようとしている。我々日本人は太古より生命の尊さに何よりも重きを置いて暮らしてきた、それにも拘らず一部の人間の利益のためにその誇りを傷つけられてしまうとは、あまりにも残念極まりない。関係者には、このような祖先に対しても未来の日本人に対しても大いなる禍根を残すことは何卒思いとどまってほしいと思う。