今日は好日Vol.2
2023年 2月20日 まだ始まっていない
少なくともかつての独ソ戦を知るものにとって、現在のウクライナ戦争はそのように映るのでないだろうか。というのもそれほど過去の戦争は想像を絶する戦いだったためだ。ちなみにWW2において日本の戦没者は当時の日本の人口約7000万人のうち、民間人を合わせると約310万人の尊い人命が失われた。この犠牲に対し2度と戦争を繰り返さないこと、そして日本人の魂と繁栄を願うことが、これまで戦火に合わずに今を過ごす我々の責務だと思っている。 では戦争はまだ始まっていないとする私の考えを述べたてみたい。このことを理解するために人類史上もっとも悲惨であったWW2との惨状を比較してみたい。なぜかといえばその悲惨な戦場がウクライナの地に重なっているからだ。初めに当時のドイツとソビエトの人口と戦争で失われた人命を比較してみたい、これを知ることにより、人間社会はどれほどの悲惨さに向き合うことが出来るか知るためだ、過去を知ることで人間の業の深さを知ることが出来るというものだ。 このことについて正確には近隣国の状況も加味しなければならないところだが、説明の要旨を簡便にするため正確な詳細についてはご容赦願いたい。また犠牲者の多寡で理論を展開することは、間違った印象を与えてしまう危険性もある、そのことについても、これはあくまでも一つの考え方であり、私個人の考えである。 初めに侵攻した側である当時、ドイツの人口は日本とほぼ同じ7000万人で独ソ戦における犠牲者は1000万人に及んでいる。一方、ソビエト連邦の犠牲者は2700万人にのぼる、なんとドイツの3倍近い犠牲者を出しての勝利だった。当時ソビエト連邦の人口は17000万人ほどだったことからも、ヨーロッパでの戦争は、現代における我々日本人の想像を遥かに超える凄まじさなのだ。 つまりこれがロシアの覚悟する大祖国戦というものだ。このことから比べると私は現在の紛争は極めて限定的だと思っている。そのことは海外からの詳細な報道からではなく、昨年の2月から戦線がどのように変化したかを眺めているだけでの感想だ。 もしロシア側に領土拡大の意図があって侵攻を始めたとすれば、それこそキーウに最も近いロシア領から侵攻して空と地上から一気にキーウ市街を包囲していたはずである。そのため私はわざわざ時間をかけてドンバス地方を経由して侵攻する必要があったのだろうかという疑問を持っている。というのも近代の電撃戦での勝敗はその迅速さに掛かっている。 確かに侵攻当初にキーウへの攻撃があったことは当初から確認されているところだが、戦闘の内容を見るととても包囲戦を意図した攻撃には見えない。その内容はロシア軍の市街地への砲撃と30名程度の工作員の侵入があったという程度だ、しかもロシアはたった3日間で包囲戦を諦めてしまったそうだ。このことを冷静に受け取るとこの攻撃は包囲戦ではなく、陽動作戦の一端か市民への警告のように受け取れる。 ちなみに独ソ戦におけるもっとも悲惨な包囲戦は現在のペテルグラードで、当時はレニングラードと呼ばれていた。このレニングラードの人口は320万人程で現在のキーウの人口と比べるとそれほど差はない。このレニングラードをめぐって行われた包囲戦が、レニングラードの攻防戦である。この戦いは約3年間続き、ドイツはこの戦闘のために70万人を戦線に送ったが、この作戦の失敗を機にドイツは大戦で敗北し祖国を分断されるという、さらに悲惨な結果を招いてしまった。 何を言いたいのかといえば、報道から聞こえてくるように、現在のロシア軍は疲弊して断末魔の戦況にあるといえるのだろうかということだ。そうでないとすればこの戦争の終わりはこれからもずっと見えないことになる。 さらに言えばウクライナはこのまま戦争を継続させて、どのような勝利を考えているのかということである。これまでウクライナ側から聞こえてきたのはNATOに対する戦車の要求である。結果的にNATOはその要求を受け入れたようだが、それをウクライナの勝利まで供給するとなると、今後どれほどの支援が必要になるか想像してみてほしいい。 戦車の後は航空戦力、長距離砲、ミサイル、弾薬、そしてこれらの要求がすべて通れば、次はそれを運用するための兵士になることは明らかなのだ。ということはこの先の展開はNATO軍とロシア軍との戦争になるということだ。 結局この戦力が要求通り供給されたとしても、ウクライナの勝利はそう簡単ではない。つまり、ウクライナの勝利の条件は2通り考えられる。一つは、戦車でロシア軍を元の国境まで押し返すことか、あるいはロシアの政権を崩壊させるまで戦うのかのいずれかだ。前者についてロシアは、もともとドンバス地方の独立または特別自治を要求しているだけだった、注意しなければならないのは、ウクライナからロシアに領土を編入させるという要求ではないということだ。つまり侵攻当初の目的はこの地域の非武装化を第一に要求していたはずなのだ。ということはロシア軍を元の国境まで退却させるためには戦車の投入ではなく、武装の解除だけでよかったのではないだろうか。 では仮に戦車戦での解決を2つの展開で想像してみる。まずは最初に指摘したように戦線を戦車で押し戻す場合である。この場合一般人が想像する最新鋭の戦車の華々しい戦車戦を想像しがちになるが、そのためには、ロシアも同じように戦車で戦わなければならない。つまり戦国時代の一騎打ちのような、大平原においての戦車対戦車の戦いである。 私はこの展開を現実的とは考えられない、もしこの事態にロシアが備えるとすれば、恐らく塹壕陣地を何重にも張り巡らし、歩兵による対戦車兵器を駆使して攻撃を防ぐことが最も合理的な戦術である。この戦術は特別な戦時術でも何でもなく、すでに75年前のソビエトは最新鋭戦車を装備したドイツ機甲師団に対しこの戦術により勝利した経験がある。一方ウクライナがNATOの戦車によってロシア崩壊を企てた場合は、圧倒的な航空戦力や機甲師団を用いて一気にモスクワを包囲することになるだろうが、それがあり得る話かどうか、どう考えても結果は見えているのではないだろうか。 要するにこの戦争を継続させることに、お互い何のメリットがあるのだろうかという結論になるのだ。 確かに武力による侵攻は非難されるべきことだが、西側はこのことが民主主義への侵害だとして戦争を継続させることは、果たして正しいことなのだろうか。現在のロシアは選挙制度を導入し民主主義国家として政治を行っている、しかもその選挙において不正が行われてたと云こともないのだ。その代表が、他国との話し合いを断念した場合に戦争という選択は、民主主義国家では許される選択ではないだろうか、そうであるなら世界はロシアの民主主義に対する何を弾劾することが出来るのだろうか。このことからもどちらか一方に正義があるという理解は危険である。安易に一方の旗を振り戦争を煽る行為は戦争を長期化させることに他ならない。 ちなみにこの戦争の悲惨なところは、人命が失われることだけではない。キーウといえば昔から世界的に有名なキエフバレー団がある、ところが、この戦争によって、このバレー団の持っていた大切な演目が公演できなくなってしまった。理由は作曲者であるチャイコフスキーがロシア人だったということらしいが、このバレー団が白鳥の湖、くるみ割り人形が踊れないという事態は、クラシックバレーの頂点にあるこのバレー団にとって致命的である。例えば一般的な日本人にクラシックバレーのイメージを訪ねて白鳥の湖以外の演目が頭に浮かぶ人は稀である。こうなるときっとムソルグスキーなどの演奏も困難になるのではないだろうか。ムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」にあるモチーフ「キエフの大門」は当事国では演奏されることが無くなってしまったのだ。 このように戦争は人命も文化さえも人類から奪うのである。ここまでして戦う理由が、本当にこの戦争にはあるのだろうか。