今日は好日Vol.2
2023年 5月8日 福山城は誰の城?
マシャの城ではなく、松前城の正式な名前だそうだ。ところが広島にも同じ名前の城がって混同しないように松前城の呼び方が広まったらしい。このことを私は昨日、桜の散った松前を訪れて初めて知ることが出来た。これまで私の北海道のイメージは屯田兵によってやっと開墾された土地で、文明に取り残された未開な地というイメージだ。
ところが私のそのような偏った認識を博物館の展示は変化させてくれた。
たとえばアイヌ文化に対し和人の文化はどのように関わっていたかということに注目してみると、北海道の海産物が日本文化に与えた影響はかなり大きいといえる。今でもご進物なとに熨斗紙(のしがみ)をつけることがある。リボンの絵がある紙の右上に赤いひし形の模様が描かれている、それが熨斗というもので、本来これには薄く削いだ鮑の干したものが飾られ長寿を表すそうだ。そしてこのような風習が始まったのは、源頼朝時代までさかのぼるのだそうだ。このことは函館博物館の所蔵するアイヌの風俗画にも他のものと共に描かれていている。当時の重要な交易品だったようだ。つまりこのころすでに北海道の産物は日本文化と切っても切れない関係にあったということではないだろうか。
ではなぜ北海道の文化は、本州の文化に比べ異質に感じるのか、それは江戸時代までの和人はアイヌの文化を尊重してきた証拠ではないだろうか、つまり和人は自分たちの生活をアイヌに押し付けることはしなかったということなのだろう。というのもアイヌでは文字や貨幣経済が普及しなかったのは、それらが、アイヌのアイデンティティーとは結び付かなかった為だという見方もできる。そのことは函館の志海苔遺跡から瓶に入れられたままの大量の銅銭が見つかっていて。このことはアイヌが蓄財に励んだというよりも、流通させる必要がなかったからだとは考えられないだろうか、逆に鉄器の製造技術を持たない彼らは鋼の刃物については積極的に生活に取り入れている。それを表しているのが彼らは刃物による木彫を彼らの婚姻の条件とするほど大切にされたことからもわかる。
このことから、北海道の文化は、単なる辺境の文化ではなく日本文化の中枢と密接にかかわっていながら、土着の文化も大切にしていたということではないだろうか。このことは昨日訪れた福山城天守閣の展示品からも感じることが出来る。驚いたのは日本文化の最果ての地にも関わらず、日本の歴史で幻と言われる聚楽第を飾っていた桐の紋章がそこに展示してあった。説明文によれば豊臣秀吉からの拝領品で、当時から松前は、天下人からもそれほど重要視されていたということだろう。また松前藩の家老蠣崎波響は夷酋列像というアイヌの反乱を鎮めることに協力したとされる酋長の肖像画を残している。まるで英雄のように描かれたこの絵はアイヌ肖像画の傑作ではないだろうか。この絵は71名の命が失われたアイヌのクナシリ・メナシの反乱に対する平和解決に起因する。この絵はこの反乱の鎮圧に協力したアイヌの11名の酋長を描いたものだからだ。このような平和的な配慮は関ヶ原の合戦を経験した日本の歴史から見ても破格とは言えないだろうか。
私にはこれほど幕府や松前藩はアイヌという少数民族に対し誠意をもって交流していた証拠と考えている。想像ではあるが武装に劣る100隻程度の小舟の反乱であれば、幕府が軍事力を用いて鎮圧することはそう難しいことではなかっただろう、しかしながら西欧の植民地支配に抵抗する当時の和人は軍事力による鎮圧を望んでいなかったのだ。だからこそ彼らの文化を尊重し反乱の平和解決に協力した酋長を偉人のように扱い、肖像画として残したのではないだろうか、このようにとかく伝記に歴史観を依存してしまうと記述者の立場によっては誤った印象を後世に残してしまう可能性がある。間違った歴史解釈を後世に残さないためにも遺物による展示は大切にされるべきではないだろうか。
ちなみに江戸時代の街並みを再現したテーマパークを訪れてみた、こちらは長屋の居間を再現したもので囲炉裏の前に座るとすいぶんしっくりくる。前世があればこんなところで「てやんでぇ、べらぼうめ」なんて叫んでいたかもしれない。
この佇まい、これから二階で若旦那の七段目が始まりそうだ、いや鼠の穴か、笠碁も合うかもしれない。