2023年 系譜
過去 現在 未来 過去は現在と明らかに繋がっている。また未来は必ず現在を起点として始まる。
時間という概念の世界には、当たり前のようだが現在が欠かせない。ところがこの現在というのが問題で現在は誰しも実体として認識はできるが、概念としてとらえることは、意外と難しい。
簡単に言えばどこからどこまでが現在なのか、ということになるからだ。私は今までこのことを羊羹にたとえて考察してきた。果たして人類は羊羹の真ん中だけを食べることは出来るのだろうか、それは在り得ないというのが当たり前の帰結である。羊羹は両端を併せ飲まない限り真ん中だけを食べることはできないのだ。
このことを命の系譜に当てはめてみると、命というものは、個別の命だけに焦点を当てていても実態を理解することは、出来ないのではないだろうか。ちなみに人の命は地球よりも重いという考え方があるそうだが、私のようなへそ曲がりは地球がなければ、人類は存在しないと思っている。これは生命とは、質量の比較の対象ではなく、お互いの関係性、つまり関わり合いの在り様が、時間軸に存在する命というものではないかと思っているからだ。
このように考えると、個性は現在の姿を映してはいるが、その根源は過去の具現化であり、さらには未来に現れる表現の起点でもある。具体的にこのことを個人の姿に当てはめてみると現在の自分の姿は、過去から繋がってきた命を表現しているのである。もしそうであるなら現在の自分を卑下することは、過去から繋いできた命を卑下することになる。またそのような卑屈な精神は未来の存在までも毀損する行為となるのだ。時間軸に存在する命は、このような因果律によってすべて支配されている。
私は日本に昔から伝えられている、お天とうさんがいつも見ているという言葉は、今の我々の行為が未来の命に関わっていくことを、現在の我々に示唆する言葉ではないかと思っている。