2023 トランクスの天使
トランクスについたジッパーは差別的だ、なので日本では昔からこの表現には、並々ならぬ配慮がされてきた。私が子供のころは、この機能のことを非常口と呼んでいた。確かに排泄を催した時の切迫感はただ事では済まない、年齢を重ねるとその説得力はますます身に染みてきてさながら恐喝まがいのようで、外出の時は真っ先の考慮しなければならないことになる。
ところで、これとは別に社会の窓という表現があった。この表現はスラングというよりは、むしろ公の場でもそれとなく使われていたのだが、ここから社会に向かって何が飛び出していくのか、いまだに私はイメージできないでいるのだ。
ところで最近、性別についてとても厳しい目が向けられている、マイノリティーへの配慮ということらしいが、まさかパンツの非常口までやめろと言われるのではないかと私は心配になっている。そもそも外見と内面が一致しないという認識は今に始まったことではないだろうと思うのだ。というのも昔からこの世界は非日常の世界として、文学や映像などの表現者からスポットライトが当てられてきたからだ。私はこの世界のモチベーションは常識というものに対する非日常の抵抗だと思っている。つまりこの世界がメジャーになることを目指しているのではなくマイナーとしての存在感を表現することでこの世の重層的な在りようを表現しようとしてたのではないだろうか。
というのも、いくら法律が認めようとも同性同士で子孫を残すことは出来ないのだ。この悲哀は同じ立場の者でなければ決して分かち合うことは出来ないのではないだろうか。このようなことを考えると彼らは法的な認知を切実に望んでいるのだろうか、時間をかけもっと詳しく検証していくことが法制化には求められるのではないだろうか。
文学における彼らの存在は平凡な日常に波を起こすことだ。日常に満たされた視点からは決してうかがい知ることのできない深淵を文学者は彼らの視点に求めたのかもしれない。公に存在を認めるというのは闇というベールをはぎ取り彼らを日常という世界にさらすことではないのだろうか。それが治世の求めるところだろうか。