2023年 観自在Ⅳ
般若心経の冒頭には観自在菩薩と書かれている、この呼び名のほかに観音菩薩、観世音菩薩の呼び名があり前者は玄奘三蔵、後者は鳩摩羅什の漢訳なのだそうだ。ちなみに私の好みで言えば観自在という言葉により心が惹かれる、とはいえこの観自在にも己があることを見るのか自由自在である状態を認めるのか解釈はいろいろあるのではないかと思っている。
それにしてもこんなことの解釈にいちいち躓く人は、やはりあわれな存在としか言いようがない。どういう事かと言えば目の前で起こる現象はそれほど受け入れがたく、苦痛に満ちているということだろう。とはいえ人類すべてが常に苦痛を感じて生きているのであれば、この苦痛から逃れようなどとは考えることもないに違いない。このことをややこしくしているのはこの世には苦痛を感じている最中の人とそうではない人が同時に混在していることで、このことがこの世には苦痛を感じずに、やり過ごすことが出来る人がいるという、大いなる錯覚を生み出しているのではないだろうか。
そんな人間の錯覚にたいしてお釈迦様は初めから釘をさす、この世は一切皆苦であると。つまり我々の個性そのものが、完全なるものからすれば何かしらの欠乏による表現であり、悲しいことにその欠乏にもがく様が生きることの本質になっている。こんなことを聞いてしまえば、この世はやはり絶望的なものと捉える方も多くおられるかもしれない。では一体なぜこんな望みのない個性がこの世に生まれる必要があるのだろうか、私はそのことをこの世で起こる現象が生命を介して宇宙の情報として蓄積され、増大していくことが宇宙の意志だと思っている。とはいえ情報の増大には、そこに刻まれる情報の善悪や喜び悲しみの区別はない、ただより多くの情報が増大することを目指している。
私はここに人類という感情表現にたけた生命が誕生した理由があると思っている。つまり喜びの記憶をより多く宇宙に刻めるように現世を過ごすことが人間の使命ではないかと思うのだ。ではその喜びとは何かといえば、何かを受け取ることでも、何かを与えることでもなく、目の前に起こる現象にただ感謝できることが宇宙の喜びになるのではないかと思っている。