令和 あくび指南
2024年 2月28日 夢と子育て
先日TVで海外でも有名な指揮者とその影で苦労される家族という設定のコメディードラマが放送されていた。ざっくりいえば主人公が家族を仕事の犠牲にしていたことに気づき、改めて家族の絆を取り戻そうというドラマなのだ。ところが先日放送された回では再び自分が目標としていたオーケストラからオファーが来るという、まるで夢のような設定だった。ドラマではノイシュタットという地名のオーケストラだったので恐らくウイーンフィルをモチーフにしているのではと思ってしまう。そしてウイーンフィルといえば、どうしても先日ご逝去された小澤征爾氏を思い出してしまうのだ。
ドラマではこの申し出を断ってしまうが、時期が時期だけに複雑な思いでこのドラマを視ていた。というのもドラマでは代わりになる才能は沢山いるという言葉が使われていたが、私には果たしてそうなのかという思いがある。私にとって才能とは誰にも代えが効かないものだという認識を持っている。つまり社会がその才能を受け入れなければ、そこはそのまま社会の損失になると思っているからだ。
しかもその才能は何をどうすれば、こうなるというものでもない、要するに努力で解決できる枠を遥かに超えた存在が才能だと思うのだ。つまり人知を超えた神懸かり的存在が天才であり、当然そのような才能を持つ人は我々が慣れ親しむ常識の世界からは、到底推し量れない存在となる。
ところがたとい天才と言われる人であっても、その外見は我々の姿と変わるところがない、ここに天才の持つ悲劇性がある。というのも天才にとって肉体はあまりにも不自由な道具でしかないが、世間はその不自由な道具の尺度で天才をみようとする。つまり天才を不自由な肉体の尺度に合わせようとしてしまうのだ、これまで多くの天才がこのジレンマの犠牲になってきたのではないだろうか。
結局我々一般人を喜びの世界に誘う数多の天才とはきっと神の恵みのようなものに違いない。そうだとすれば彼らは一般人とはかけ離れた基準で世の中を生きている可能性があるのだ。このことに喜びを受ける側はもっと彼らの特異性に気付くべきではないのかということが、私をこのドラマで複雑な思いにさせている。
とかくタレントと呼ばれる芸能人は、自分の生活はもとより、このような子育てのことまで世間の基準にさらされている。うまくいって当たり前、不満が出れば子供を犠牲にしたということになってしまうのだ。私はこの犠牲という捉え方がこの問題の原因ではないかと考えている。
どういう事かといえば子育てもまた多様であり、子育てに正解はなく一方的な見方で犠牲などと言えるものではないということだ。そもそも子供は様々な因果律の絡み合いの中でたった一つの命として生まれて来る。つまりそもそもここには優劣がなく、もし困難な生活環境に生まれてしまったとすれば、それは自分の特異性をさらに際立たせるための舞台装置ではないかと捉えている。自分はそこで何を感じ何を喜びとしていくかが、この世に生まれた意味ではないかと思うのだ。
しかしながらそうは言っても、世の中にはやはり子供に悪い環境というものがある。それはネグレクトというものだろう、無関心は魂を滅ぼすと言われるからだ。だからと言って朝から晩まで子供の近くにいれば心が通い合うというものでもない。結局子供は親の背中を見て育つというが、私は自分が望ましいという道を正直に歩むことが、子供にとっても人生の希望になるのではないかと思っている。つまりドラマの話に戻すと、私はノイシュタットには行くべきだと思っているのだが、まったく余計なことをつべこべ書いてしまった。
というのも、この投稿の令和あくび指南のテーマは余計なことをコツコツとですので、あしからず。