令和 あくび指南
2024年 10月28日 落とし噺し
どれほどシリアスな話でも、落語であれば何事もなかったかのように現実世界に戻っていくことが出来る。ちょうど悪夢から目が覚めた時ホッとする感覚で、有名な噺では芝浜や鼠の穴などの傑作がある。では何故そんな風に悪夢のような話をさらりと最後の落ちでかわすことが出来るのかといえば、最後に来る落ちでこの話は洒落なんですと言ってしまえば、すべてのことが許される世界だからかもしれない。
なかにはこの洒落が時代の流れですでに伝わらなくなっていることも多く、気の利いた噺家になると枕に、そっとその伏せんを忍ばせておいたりする。このような細かな心配りで噺の中で起こる積もり積もったストレスをスッキリと落としてくれるのだ。
ところで先日放送された落語研究会に古今亭志ん朝氏が登場した。改めて氏の落語を聞くと、これぞ落語の教科書とでも言いたくなるほど完ぺきな話しぶりに、時の隔たりも忘れて聞きほれてしまう。因みにそんな志ん朝氏のお姿も私のイメージの中ではさらにお若いころのイメージがいまだにこびり付いていて、この放送に登場した堂々とした志ん朝氏のお姿を見ても、自分の記憶と重ならず、改めてテレビに顔を近づけてよくよく見返すほどだった。
さて噺家の姿といえば、この放送のトリに登場した柳家小萬ん氏の枯れた雰囲気には、いつもながら噺家の粋を感じる。恐らく何をどうすればあんな雰囲気になるのか誰も説明できる人はいないと思うのだが、肩ひじを張らない氏の高座はかえって我々に落語という芸の普遍性を伝えているようだ。因みにこの回の放送で、長年ちゃぶ台の前に座られ落語の解説をされていた京須 偕充氏が降板となった。なんだか寂しい思いになるのだが、恐らくちゃぶ台を前にして解説する氏のお姿にテレビの前で落語を楽しむ自分の姿を重ねていたからかもしれない。