新日本を護るために
2024年 11月27日 SNSがマスメディアに勝利した?
今朝ほどネットで(兵庫県知事選で「斎藤支持派」が暴走した理由)というデイリー新潮の記事を見かけた。私などはこの見出しを見かけただけで、記事への公平性を疑ってしまうのだが、このように執拗なマスメディアの態度には、呆れるというより看過できない作為を感じてしまう。というのも印刷物や放送も含めて通常、購読料や広告掲載料で支えられている企業だとすれば、多数の購読者に多少おもねる態度がみられても不思議なことではない。ところが、先日のテレビ報道も含め、マスメディアはこの選挙に対して一貫して批判的立場を崩さない。特にN党と呼ばれた党首の参加がこの流れを変えたこの選挙は、このことを象徴しているように思える。NHKといえばこれまで、準国営放送として様々な文化的価値の高い番組を放送し私も長年お世話に成って来た放送局だ。ところが最近、外国にまるでおもねるかのような放送が見かけられ、特に顕著だったのが報道番組で、その被害は放送局全体に及んでいる。このようなことは恐らく内部の人事に問題があるのだと思うのだが、このままでは放送局自体の存続も危ぶまれる状況になりはしないか心配になる。残念ながらこれを正すには自助努力しかないだろう。ではなぜ、これほど国民からの支持を犠牲にしてまでこのような行動をマスメディアはとり続けるのか、ここがこの問題の核心ではないだうか。
つまり、今回の知事選で個人のSNSが大活躍したことは、不特定多数の関心はSNSにあったということだろう。ようするにマスメディアの提供する情報よりも個人の発信する情報の方が情報価値が高かったということなのだ。それにも拘らず、この記事では、そのことは脇へと追いやって、日曜の報道バラエティーよろしく論点のすり替えが見られた。例えばこの記事にある「政策論争は脇へと追いやられ」という表現はまさにこの記事を象徴しているようだ。確かにこの記事の指摘通り、選挙中SNSで騒がれていたことは政策論争でもないし、ましてやその賛否を問う2言論でもない。要するにネットで問題視しされていたのは、そもそも知事の辞任理由となった告発文書の信憑性についてなのである。ところが、この記事においてもやはりその部分に触れるところは全くなかった。
恐らくこれは紙面の都合という言い訳になるかもしれないが、文字数や当てられた放送時間からいって、その言い訳は通らないだろう。それよりも1番の問題は、このようなマスメディアにはその一貫した表現パターンがみられる。具体的に言えば、問題の論旨には全く触れず、大衆は根拠のない喧伝に惑わされたという論調だ。不思議なことにこのような態度は、日本のマスコミばかりではない。例えばEU各国において移民反対や自国の産業を守れなどと言う政党は、すぐに極右政党というレッテルが貼られてしまう。これでは、世界中のジャーナリズムがその価値を失ってしまうのではないかと心配にさえなる。
このような状況でいまだマスメディアの将来性と正当性を保とうとすれば、常に公平性を保ち真実だけを追求するジャーナリズム本来の姿勢が求められるのである。