新日本を護るために
2024年 12月8日 島の悲しさ
島の暮らしには宿命のような悲しみがある。というのも今放送されている光る君へという大河ドラマでは前回刀伊の入寇という回が放送された。これは、1019年に実際起こった出来事で対馬から九州に至る海賊被害をテーマにしたものらしい。ドラマでは京都における政権の中枢にいた藤原隆家が九州大宰府に着任して早々の出来事として描かれている。その場面に登場する藤原隆家の武者姿には目を奪われる。このドラマでは特に出番の少ない甲冑シーンだったが、このシーンに掛ける美術人の思いは十分伝わったのではないだろうか。
とはいえ、この海上からの日本への侵攻はこの後も止むことはなかった。つまりそのつど対馬以外の島々では、このような侵攻の脅威にさらされていたようだ。結局そのたびに武装していない市民は、苛烈で容赦ない暴力になす術もなかったことになる。しかもその暴力の詳細は筆舌に尽くしがく、それを黙ってこらえることはあまりにも不憫な事だったに違いない。そしてこれ以降侵攻の規模は、さらに拡大してここから270年が過ぎると今度は元寇との戦いになる。しかもこのような戦いは、これで終わらない、刀伊の入寇からちょうど400年後に当たる1419年今度は朝鮮が17000にんもの大軍で対馬に襲い掛かってきた、残念ながらこの時代の日本は、すでに武士が政権を担う時代の室町時代になっていた。結果は700騎の武者が防衛にあたり襲い掛かった朝鮮側は散々な結果のまま敗退するよりなかったという。代わりに今度は日本の海賊がフィリピン、インドネシアにも制海権を伸ばし、これを倭寇と呼ばれていたようだ。しかしながらこの倭寇は大変秩序正しく、無秩序な海賊とは一線を隔していたという。
このようなアジア情勢の中、日本が大陸へ侵攻したのは、これからおよそ200年を経た太閤秀吉の時代になる。この時も朝鮮出兵と言われているが、秀吉の頭の中は対明国への軍事侵攻というイメージだったようだ、というのもこの頃のアジア情勢はスペインによる植民地化が進み、すでに当時ルソンと呼ばれていたフィリピンはスペインによって征服され国号をフィリペ王に因むフィリピンにされてしまった。
因みに朝鮮出兵といえば秀吉のご乱心との歴史認識が主流だが、この時恐らく秀吉はスペインの軍事力と日本の軍事力を秤にかけていた可能性がある、とはいえ面従腹背の横行する国においての兵站は、天才秀吉であっても大きな誤認があったのではないだろうか。
さて、このような歴史の事実を振り返っただけでも、相手国を信頼し武装を持たない平和などは、世の中の価値観が、すべてひっくり返りでもしない限り成立しえないのである。中でも近年生まれた唯物主義は人間の欲望そのものが、その思想の根底にあり、困ったことにこれを成すためには暴力的解決もいとはないらしい。というのも、この思想の元で人類が失った命の数は、無情な戦争被害よりも遥かに多いのだ。