新 思考ラボ
2026年 4月11日 国家と象徴

世の中に暮らす生き物には、自己完結してしまう生き物と集団で暮らすことが運命づけられている生き物が存在する。この内自己完結してしまう生き物より集団行動を宿命とする生き物はどちらかといえば複雑な造りをしている。だからと言って集団行動をとる生き物はすべて高等な生物と定義しづらいのだが、とはいえ集団行動を成立させるためには個体同士の意思疎通が必要で、それには個体を離れて存在する同じ概念を共有する必要がある。
ところでこのような意思疎通は人間だけのものかといえば、クジラに象徴されるような高等な知能を持つ生き物から、ほんの些細な体しか持たない虫の世界まで意外と幅広く存在しているらしい。昔学校の授業で蜂は花のありかを旋回の仕方で表現するのだと教わった。つまりそんな些細な虫であっても花や蜜そこに辿り着くための経路などという、いわゆる概念を共有している事になる。要するに集団行動をとる生き物にとって概念を共有することは好むと好まざるに関わらず、遺伝子に刷り込まれた宿命のようなものなのだ。ではその概念とはどのようなものかといえば、要するに物事を抽象化して象徴的に捉える能力ということだろう。
では、概念の共有化は音声だけに限られるのかといえばそうではなく、人間の場合、図像を抽象化し象徴的に表現した文字がある。これにより人間はより複雑な概念を共有できるようになった。今ではこのような概念はデジタル情報として更に新たな地平に向かっているのである。
話がどんどん壮大な話になってきたが、今日のテーマはこのような国家という概念が理解されていない政治家がいるのではという心配が出てきたからだ。というのも国家とは、主権・領域・国民だと知っていても、では主権とは何んなのかが把握できなければ、主権の理解は難しい。要するに主権とは国民が共有する国家という概念の事に他ならないのである。具体的に国民というのも同じことでこの概念を共有する人々のことであり、領域とはこの概念で定められたいわば縄張りのようなものである。つまり国家という概念を如何に守るかが、国を守る事に他ならないのである。このため人類の歴史を辿ればこれを守ることがいかに重要な事だったのか思い当たる。象徴的な例として日本の近代史では、軍事力では優勢だったはずの江戸幕府が敢無く薩長連合に敗れ去ったのも、自らを官軍と名乗り、錦の御旗を掲げた戦略によるものと伝えられる。つまり国家を象徴する国旗が戦争の行末に迄影響が及んでいたと言う事になる。このように国旗の重要性は国家の存亡にまで影響を与える物であり、国家として尊ぶべきものと考えるのが常識なのである。これを蔑ろにされても構わないという発想は、少なくとも国民の命を預かる国政に身を置く人間としては相応しくない。それほど表現の自由を訴えたいなら、世界を股に掛ける芸術家として新たに出直してはどうかと思う。
総理が聞く耳を持たないのか自分たちの考えが間違っているのか、常識に照らして考えてみる必要がある。身内であっても総理を孤独に追いやるのはこのような無理解ではないのか。