今昔問答
2025年 5月4日 歴史の誤解
歴史を振り返るとまるで根拠のない噂が、歴史の事実のように扱われることがある。しかも探せば幾らでも証拠が見つかるはずの大東亜戦争についてでさえ、昔からいろいろ怪しい噂が飛び回いっていた。そのため小学校間もない私も当時流されていた噂話をそのまま信じ込んでいた。例えば敗戦の原因は日本にレーダーがなかったからだとか、或いは軍が大和のような大艦巨砲主義に固執したせいだ、などなど枚挙にいとまがない。そんな情報も現在のようにネットで簡単に検索できない時代であれば致し方がないかもしれないが、今の時代その気になればいくらでも情報が手に入る。
とはいえ、このような現代にあっても未だに誤情報を垂れ流す人は、むしろそうしなければならない別の事情があるのかもしれない。
因みに昔からよく言われていたのが、B29の映像と竹やり訓練の映像を繋いだ映像をみて、当時の日本人は竹やりで爆撃機を落とそうとしていたとか、特攻は普通の爆撃と効果が変わりなく兵隊を無駄死にさせたなどと言いふらし、当時の軍や政府は如何に狂った存在なのかと盛んに印象付けている。というのも、この当時日本は本土決戦に向けた準備が進められ、敵軍の上陸作戦により女子は辱めを受ける可能性が出てきたからだ。これに対する抵抗の術としてこのような絶望的な訓練がされていたのだろう。要するに周りに兵隊がいなくなっても最後は自分で身を守れと言う訓練なのだ。
ではこのように絶望的な覚悟をしなければならなかった理由は何だったのかといえば、サイパン陥落時に受けた住民の教訓によるものだと言う事は世間にあまり知られていない。むしろ生きて虜囚の辱めを受けずという日本軍の戦陣訓がこのような悲劇を招いたとされている。とはいえここでハッキリしておきたいのは、日本軍は当時も民間人を戦闘の巻き添えにすることは望んでいなかったという事実である。
というのも、サイパン陥落の1944年7月9日、日本軍はアメリカ軍の沖縄上陸を察知して同年8月には早々と沖縄住民の疎開を命令し、子供から順に次々輸送船での疎開を計画していた。ところがこの時の輸送船の一隻である対馬丸は潜水艦の追跡にあい甲板に子供の姿が確認できるにも拘らず、浮上したままの潜水艦から魚雷攻撃を受け沈められてしまったという。このことを沖縄に残った住民が知ってしまえば、もはや疎開は不可能と諦め、むしろ最後は日本人としての誇りを貫くことを覚悟したと思えないだろうか。
つまり何を言いたいのかといえば、このように自ら進んで軍に協力された方々に対して、彼らは狂った軍隊に強制され悲壮な最後を迎えたと解釈することは、誇りある最後を望んだ彼らに対しての侮辱である。私は彼らの思いに報いるためには、彼らが心に思い続けていた誇りある日本の心を次の世代に継承していくことだと思っている。彼らが暗い洞窟の中で託した希望の光を踏みにじってはいけない。