今昔問答
2025年 5月8日 理解されないプライド
昔フランスを訪れた日本人が初めに驚くのは、パリの空港で英語が通じないことだった。とはいえそれがわざと分からない振りをしていたことを後から知ってさらに驚いた。このことでフランス人は世界一誇り高い人たちだと思っていたが、最近Dデイの動画をみてなるほどと思うことがあった。一般的な日本人はノルマンディー上陸作戦はフランス開放のための作戦で、これを成功させたアメリカ軍はまさにフランス人のヒーロと思ってしまうはずだ。
ところが、この時の若い兵隊の行動は、良い面ばかりでは無かった。というのもフランス市民の中には性的被害にあったものや、アルコールで我を失った兵隊から市民が暴行を受けるなど、特に補給の拠点となった近隣のシェルブール市などはこの対応に苦慮していたのだという。恐らく彼らにとってはドイツの次はアメリカかという悲壮な思いであったに違いない。要するにプライドの問題というのは簡単に解決の出来ない実に根深いものだからだ。そのため、戦後の連合国の中でシャルルドゴールが見せた毅然とした態度はフランス国民の溜飲を下げてくれたに違いない。ところがこのシャルルドゴールもモナコ公国国民にとっては、まるでどこぞの独裁者と変わらぬ思いを持たれていたのだ。
これでは一体世界中どこに正義は有るのかと考え込まざるを得ない。さて、今の日本においても同じ国民同士がこのような諍いの渦中にある。というのも今回自民党の西田議員からひめゆりの塔の展示について説明文が事実とは違うという発言があり、今まさに大炎上しているところだ。西田議員はこれについての発言を撤回するつもりはないとのことなので、この話を理解するためには口が滑ったなどの軽はずみな発言では無いことを、初めに押さえておく必要がある。またこの文章もこのことを擁護する立場で書こうと思っているので、そのつもりでお読みいただきたい。
とはいえ最初に断りを入れればこの文章により抗議されている方の考え改めようなどの不遜な思いはない。そんなことが出来るのは神の御技しかないだろう、要するに私は現世の人間には諍いを止める術はないと思っているからだ。因みに昔から戦争はなぜ起こるのかという問いがある。その答えを私は、話し合いが成立しないから暴力に訴えるのだと思っている。要するに話し合いはどちらかが歩み寄りを見せなければ納まるものではない。つまり相手の言葉に耳を貸そうともせず、自分の主張だけを繰り返すのは、相手に論理的解決を諦めさせる結果に繋がる。私は現在のウクライナ戦争もこの繰り返しに思えてならない。つまり大東亜戦争の流れについても日華事変前から日本が執拗な挑発にあい民意が一気に戦争に傾いてしまったことを知らなければ、無謀な戦争がなぜ起こってしまったのを理解することは難しい。
とはいえ、話し合いが成立しなくても民主主義国家であるなら多数決という最終的解決方法もあるはずなのだが、このことですら民意とは言えない政治家が政治の中枢に張り付いていたり、数の暴力や少数の意見も同等だなどの巧妙な言葉遣いによって現代では民主主義の根幹さえ頼りないものになってしまった。
話がズレてしまったが、戦争によらない解決を望むのであれば、相互理解という価値観の共有が根底になければ成立しないからだ。
ここで、あらためて双方の主張の違いはどこに有るのか見てみると西田氏の主張に対し、展示側は展示内容については正確な資料と実際の体験者からの取材をもとに展示しているので、嘘や間違えという主張はおかしいというものだ。確かに体験談や資料に間違いはないと私も思うが、西田氏の主張は説明文の文脈がおかしいと言う事を主張しているのだろう。つまり、説明文では日本軍が上陸してきたために沖縄は戦場になってしまったかのように受け取られる危険性があると言う事なのだ。因みにこれと似た解釈の混乱を招く文章に広島平和記念碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と言う文章がある。この文章はアメリカ人によって書かれたものであれば誰もが納得できるものだが、核兵器を持たない日本人が記した文だとすれば、頭をかしげる。この文を曲解すれば戦争を始めたのは日本人なのだから日本人さえ戦争を起こさなければ、このような悲劇は起こらなかったと読み取れないだろうか。このようなことを見ても、歴史認識は受け取り手により微妙で場合によっては自国のプライドさえ傷つけてしまうことになりかねない。
結局私はあのような悲劇が起こった背景には国民の無関心があったのではないかとさえ思っている。つまりいろいろな事実を繋ぎ合わせていくと当時あったコミンテルンの暗躍や今話題のDSによる関りがちらちら見えてくる。とはいえ今でこそこのような情報も、何の苦労もなく手に入れられる時代になっているが、このような環境いる現代人が情弱な80年前の人達を非難するのは公平ではない。むしろ開かれた情報に触れることの出来る現代人にこそ平和の道が託されているはずだ。残念ながら歴史の選択に二度はない、もしこのまま日本人としての誇りを失い、そればかりか、これまで受け継がれてきた尊い歴史をも失った日本人に何が残されているだろうか、そこに存在するのはすでに日本人とは言えない人々だけだろう。