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2025年4月7日ようこそブログ

2025年 4月7日 虚と実

昨日、24年に公開された八犬伝を配信で視た。本当は劇場で視たかったが、あれやこれやでその機会を失っていた。因みに私が八犬伝と出会ったのは新八犬伝と言う今から50年前の人形劇だ。そこに登場する人形は今は亡き辻村 寿三郎氏の手になる。何とも温かい風合いの人形たちですぐに人気となった。この放送は1回15分で464回の放送があり、時間に直すと6960分という超大作になる。

昨日見た映画の八犬伝は149分で、この八犬伝の話に加え曲亭馬琴の半生を詰め込むとかなり欲張った構成になる。とはいえ表現者の立場で言えば、本来どちらか一方で表現した方が、観客に与える印象はより強くなるはずだ。そうは言っても興行と言う立場に立てば派手なアクションとビジュアルの美しさはどうしても欠かせない要素になる。要するにいかめしい老人の顔だけで客が呼べるかと言う事なのだ。とはいえ役所広司、内野聖陽の活躍を知る人はあの顔だけで十分であるという気持ちになる。

この映画は正直そんな危ない2刀流映画になってしまったが、結果的にこの効果が相乗的効果にはなっていない。残念なことにそれぞれのパートの仕上がりを比べれば、いずれもクオリティーが高くこの結果は意外だっただろう。因みにこの映画のアクションパートに注目すれば、今から40年前に公開され話題を呼んだ里見八犬伝がある。この時は監督に深作欣二、アクションの指導に自分も出演する千葉真一、今年ゴールデングローブ賞に輝いた真田広之、そして当時人気というより社会現象になった薬師丸ひろ子氏が静姫役を担っていた。これを当時飛ぶ鳥を落とす勢いの角川映画が全力で宣伝広告を仕掛け興行を打つのだから、日本中がこの流れに乗っかってしまうことになる。つまりこの映画のアクションパートを取り出して出来不出来を比べるのは蟻とゾウの戦いを眺めるような気持になる。とはいえ現代のVFXは当時とは格段の技術差があり、昨年のゴジラー0.1に倣いここに見せ場を集中させれば、意外と結果は違っていたかもしれない。だとすれば、最初に登場するわんこの表現にナルニアほどの力が注がれていればと思ってならない。

ところで私がこの映画に最も期待していたのは、役所広司をはじめとする爺さんによるパートだ。このパートの主役になる曲亭馬琴については2015年に歴史列伝と言う番組で取り上げられ、たまたま私は昨年この再放送を目にすることが出来た。この番組によると氏はお家再興を願ってひたすら戯作を続けていたと語られていた。この流れからすれば戯作の活動は、しのぎのための仮の姿で氏のプライドを満たすものではなっかたことが良くわかる。加えてお家再興を託した子息の死は、曲亭馬琴をどれほど絶望的な状況に追い詰めたかが偲ばれる。ではその希望を完全に失ってしまっても、子息の嫁に代筆を頼んでまでも作品を完成させたモチベーションとは何だったのか、私はこの時、氏は初めて大衆の思いというものに向き合うことが出来たのではないかと思っている。

さてこの映画には、何が嘘の世界で、何が実の世界かという大きなテーマが隠されているように思う。この映画では当時流行った四谷怪談と八犬伝を対比させるように描かれている。とはいえどちらも虚を描いた作品なのだが、人間のどろどろとした業の世界にスポットをあて世間の目の当たりにさらけ出す鶴屋南北、対して仁義礼智忠信孝悌と言う人間の理想に焦点を当てようとする曲亭馬琴、二人は四谷怪談の初演において舞台下にある真っ暗闇な奈落で偶然出会う。この出会いにもかなり手の込んだ演出があった。この場面は奈落の底に光が差し込むせり出しを見上げる馬琴とその隙間から逆さまに頭をのぞかせる南北の間で芝居に対するやり取りが始まる。これにより鶴屋南北演じる立川談春氏は頭を下向きにのぞかせたまま台詞を話し、しかも顔の見分けがつかない逆光のまま演技するという凄まじい演出だった。

この場面では歌舞伎の名作忠臣蔵の合間に四谷怪談が挟み込まれていたことに対し曲亭馬琴は憤りを隠せない。というのも馬琴にしてみれば忠臣蔵は史実であり滅私奉公の鏡である。これを架空の不義密通話と混ぜこぜにされては許しがたいという思いなのだろう。この時のやり取りには役所広司氏の演技を超えた気迫が伝わってきた。

さて役所広司氏と言えば様々な役柄をこなす名優だが特に侍役として印象に残っている作品がある。それは今から10年も前の作品になるが、蜩ノ記と言う映画だ。この時は偶然折り合いが良く確か映画館に出かけてみた記憶がある。とはいえこの映画には初めから喜びの場面を期待できるようなところはなく初めから絶望しかない設定にもかかわらず不思議なことに、私はこれを見終わった後、何故か清々しさを感じることが出来た。内容は10年後の切腹を控えながら、静かに暮らしを全うし続ける武士の姿が描かれている。大概このような映画は途中で、この不条理な切腹が回避されるというストーリーを期待してしまうのが、この映画ではむしろそうあらねばならぬと言った現代の常識とはかけ離れた認識が支配していた。今から思えば、この映画も武士の理想という虚なのか実なのかを考えさせる意味深い映画だった。確かに現代の世はこのような理想に拘ることは現実を無視した虚の考えと捉えられかねない。とは言えそれを捨て欲のままに流され生きることは、この世に生きるモチベーションになり得るだろうか、生い先の短い爺さんは虚に生きるべきか、実に生きるべきかいよいよ迫られるのである。

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Posted by makotoazuma