日々これ切実
2025年 12月18日 最終回

この頃ひいきのドラマが次々終わりを迎えるのでいよいよ年の暮れを感じる。先日は大河ドラマのべらぼうが最終回を迎え何とも寂しいかぎりだ。改めて振り返ってみると、このドラマは結構異例尽くしだったことが分かる。というのもこれまでの大河ドラマといえば日本の歴史を教科書を辿るように描かれることが多かった。ところが今回は出版というメディアから捉えた日本の歴史というまったく新しい視点なのだ。確かにこれまでも、「晴天を衝け」など商人を取り上げたドラマもあったが、女郎屋、忘八という江戸の末端で暮らす人々をテーマにするドラマは初めといって良い。
ところで、最終回でいきなり登場した北村一輝氏扮する本居宣長だが国学を広めた日本の偉人である。今回これほど存在感ある俳優を起用したのは、このことの重大さをこのドラマはアピールしているのだろう。後に古事記伝を執筆し和歌と日本人の有り様を「もののあわれなど」という抒情性にこそ日本人の本質があると言う。これはつまり蔦重という江戸時代の出版プロヂューサーなくして国学というものは世に出ることがなかったのではと言う事を示唆している。因みにこの「もののあわれ」については現代でも日本在住のドナルドキーン氏が世界にむかって紹介してくれている。
さらに言えば、このような出版による影響は当時の日本国内だけにとどまらず、図らずも海を渡り地球の裏側に住むマネやゴッホにも届くことになる。そればかりでなく、建築や陶器におけるアールヌーボー様式にも積極的に用いられ世界の美術史に大きな影響を与えていたのである。ここで図らずもといったのは浮世絵が海外に渡った切っ掛けは貴重な瀬戸物の緩衝材という偶然によるものだったからだ。つまり当時の日本人は浮世絵を大量生産の慰みもの程度にしか意識していなかったのだろう、実際希少性の高い一点ものに拘る当時のコレクターは絵師に肉筆画を描かせていた。
さてここで私が思うのは人を楽しませようという思いこそ、時間を超え世界を駆け巡ることが出来るのではないだろうか。それではどうすれば人を楽しませることが出来るのか、これとて何はともあれやってみるしかないのである。