盾つく虫も好き好き
2025年 12月1日 英霊の思い

私は日頃からナショナリズムという思いにはシンパシーを感じている。特に日本国の特異性は世界中見回してもこれに替わる文化を見つけることはできないからだ。このことは希少性ばかりではなく、日本文化は人類が理想とすべき文化だと思っているのである。そう思えばこそこの文化の継承には神経質にならざるを得ない。そのためこれに対峙するグローバリズムなどは特に警戒すべき対象とみなしている。
私がこのグローバリズムと相いれないところは、彼らによる神聖の否定にある。分かり易く言い換えれば彼らの物質至上主義であり、悪魔崇拝のごとき行為にある。とはいえ現在これを表面的に見分けることは容易ではない。というのも彼らは神聖に対しては平等や人権という人間の理想を掲げており、このことはすでに国際的なにコンセンサスを得ているからだ。具体的にはこれまで世界中に定着していたクリスマスの天使は不思議と影を潜め、最近ではハロウィーンの魔女やモンスターが影響力を強めている。とはいえどちらもキリスト教に因むモチーフではあるのだが、知らず知らずの内に世間の主役がすり替わっているようなのである。
さて話が今日のテーマとズレてしまったが、なぜ私はこんな話を最初にしたかというと、保守を標榜するほとんどの人が日本神道については肯定的であり、無論皇統についても言うまでもない。またこれと同じく首相の靖国参拝は控えよなどと言う保守も見たことがない。そればかりか彼らは学校教育で学んだ太平洋戦争とは言わず、あえてあの戦争を大東亜戦争と呼ぶ。
では何故、世間に認知されていないこのような言葉を使うのかといえば、支那事変から始まる先の大戦は、人種差別を当然とする西洋帝国主義からアジアを解放し五属共栄を目指すという大義に共感しているからだろう。
このような崇高な思いに対し核兵器保有とはどのような大義があるのか、相手が持っているから自分たちもそうするべきだという考えは、大義のために戦った英霊にたいし泥を塗る行為のように思えてならない。具体的に核兵器はその破壊力により敵味方見境なく破壊しつくしてしまう。そのため広島、長崎での原爆投下時に多数の連合軍捕虜がこの犠牲になっているのだ。ところで東京裁判で日本軍の捕虜に対する非人道的扱いを糾弾していた彼らが、自国兵士の捕虜がいることを知りながらこのような非道を行っていたのである。以前私はプライベートライアンという映画を見たことあるが、この映画ではたったひとりの米兵の命を護るため前戦から彼を連れ戻すという作戦だった。このような映画を思い出すたび現実とのあまりのギャップに言葉を失うのである。さらにこれを例えれば窮地に立たされた悪役が、罪もない人を人質にするのと変わらないように映る。こんなシーンを見てこれを正当防衛だとする人は居るだろうか、こんなことをする悪党は打ち殺されて当然でそんなことがあれば映画館は拍手喝采になるはずだ。
つまり、核により相手国の市民に脅しをかけることは映画の悪役と同じことで、世界中から「こんな奴らは滅ぼされて当然の悪党だ」と思われても仕方がないのである。要するに右翼を自認する人が表向き神事を尊ぶと言いながら、このような愚劣な行為に及ぶことは清廉潔白を望んで散った日本の英霊に対し顔向け出来ないことになる。つまり大東亜戦争の切っ掛けとなった支那事変に臨んだ将兵も、当時支那人を殲滅しようなどとは考えていなかったはずで、かかる抵抗が止めば五属共栄の世界がきっと訪れると信じていたはずだ。だからこそ本当の右翼は、今も大義の無い太平洋戦争とは言わず、大東亜戦争という言葉に拘るのではないだろうか。