続 盾つく虫も好き好き
2026年 5月4日 タブー

人間社会に法律などなかった時代は、理屈をこねるよりダメなものはダメで納得させられる。これを外国ではタブー(TABOO)というらしい。因みにベテランの方がこの言葉を聞くと、勝手にラテン音楽と結び付け「ちょっとだけよ」と呟きたくなる。横道にそれてしまったが、世の中理屈よりも雰囲気がその場の環境を大きく変えてしまうことが良くある。これをプロパというそうだが、人間は一度そう思い込んでしまうと、論理的思考にはストップが掛かるものらしい。
例えば、昨日の憲法記念日など、憲法改正賛成派と憲法改正反対派に分かれてしまう、最近はこれに憲法創建派という新しい選択も加わったのでいよいよややこしい。
ところで、民主主義国家である日本国の国民はこのことをどのように捉えているのか、といえば国民はすでに直近の選挙でハッキリ、その意志を示している。つまり先の衆院選では、憲法改正を謳う第2次高市内閣が国民からの熱い信任を受け自民党の単独過半数どころか2/3の議席をえたからだ。このことはその前の政権で自民党は連立を組んでさえ過半数割れを起こしていたことからもハッキリしている。
しかしながら、日本では何故これほど憲法改正がタブー視されてきたのかといえば戦後教育の影響が大きい、要するに日本にはこのような時の教訓とすべき歴史が2つあるように感じてしまうのだ。例えば日本人に侍と云っても、これを否定的に捉える人は少ないだろう。ところが日本の軍人といえば、まるで鬼のように受け取る人がでてくる。何故かといえば彼らは軍人をそのように捉える歴史を学んでいるからだ。がしかしそれが事実かどうかまで検証しているのかといえば、ほとんどが受け売りのままだろうと思うことがある。このことは学校教育に留まらず、現在のYouTube動画などでも見受けられるので注意が必要だ。その例として特に酷いのが慰安婦問題で、発信元となった新聞記事の著者が、自らこの記事は事実無根の創作だったと公表していた。にもかかわらず、このことは執拗に外交問題にされ政府もまたこれを外交上のタブーのように扱っていたのだ。このような屈辱的な状況を、高市政権は毅然とした態度を保っていてくれているので、現政権の支持率は現在も高いままを維持している。
ところで憲法改正の一番の問題は交戦権をどう捉えるかだろう。この点ややこしいのが国連憲章の存在である。多分国連憲章の作者は日本国憲法の作者と同じ人ではないかと思ってしまうのだ。結局、国連憲章であっても現実を無視した法律は日本国憲法同様、蚊帳の外に置かれてしまうのである。これでは法の支配事態が空々しいものになってしまう。そうならないようにするためにも、あまりにも現実離れした法律は、時流に合わせて替えることが必要になる。それが法の支配を維持するための必要条件だ。