続 盾つく虫も好き好き
2026年 5月19日 欲しがりません勝つまでは

或いは、「贅沢は敵だ」という標語も太平洋戦争における市民の窮乏を象徴する標語として語られる。とはいえ太平洋戦争は軍部の暴走により起こった戦争という認識は正しいのだろうか。というのも改憲の反対派は軍の保有は戦争に繋がるという認識で固まっているからだ。そのためシビリアンコントロールと云われる、軍人ではない文民の統制が必要とされるのだが、果たしてこの認識は正しいのだろうか。
さてこの標語については軍部が戦争を続けるために市民に押し付けた標語かといえばそうではない。この標語は昭和15年に文民である大政翼賛会という政党と新聞社が結託して市民から募集したものだ。では昭和15年という時代はそれほど窮乏生活を強いられる状態だったのかというと日本は日中戦争で連戦連勝を続け、この前年には親日の南京政府が誕生している。とはいえ重慶に立て篭もる国民党軍とは戦闘が続き、北方ではノモンハンでの緊張が高まっていた。そのため、国家総動員法による戦争は国家全体の戦いという意識が強められていた時代でもある。つまり、物理的に物資の流通が止まったというよりは、市民生活は総力戦へと国家全体の意識が変えられていったじだいであることは間違いない。何を言いたいかといえば、戦争は軍事人の暴走ではなく、当時もやはり文民である政治家やマスコミがその流れを作ったことは間違いない。
では、戦後明らかに無謀と思われる太平洋戦争に何故突き進んだのかといえば、国民の目には届かない処で歴史は動いていたというしかないのである。そしてそのことは今も全く変わらないというのが私の正直な思いだ。
というのもこれほど世界中の動きが誰でも手に入る時代でありながら、不条理極まりないことが次々起こっている。例えば現在我々の生活を直撃しているナフサ不足という問題がある。これに対し政府は問題ないとしているが、様々な業界ではこのナフサ不足による懸念が報告されているそうだ。これに対する政府の答弁は「目詰まり」が起こっているという回答なのだが、マスコミはこの回答に不満のようだ。それにしても昨年起こったコメ不足では、現在コメ価格暴落の心配が囁かれている。できればこの問題新米が流通する前に解決すべき問題なのだが、このままの状態で米の価格が暴落すれば、今度は米の安値が生産者を直撃してしまうことになる。私からすれば初めに米が小売りから消えた時点で徹底的にコメの流通を洗い出すべきだったと思うのだが、あの当時の政権には取り付く島もないという混乱ぶりだった。
さて現在起こっているナフサ不足も私には全く同じ構造のように思える。つまりナフサが不足すると言う事は、ガソリンも不足することになるからだ。ところが現在日本全国のガソリンスタンドからガソリンが消えたという報告は聞かれない。消えているのはもっぱらナフサ関連の製品に尽きる。このことが不思議なのはガソリンもナフサも原油から蒸留により精製される。因みに原油には産出場所により,成分の違いがあるものの、ガソリンが精製されてナフサが精製されないことはない。このことについてナフサ不足は、ナフサ価格がガソリン価格より低いため需要が低いのだという説明があった。とはいえガソリンの値段がナフサより高いのはガソリンの流通コストにあるのではないだろうか、ナフサというのは加工する工場が決まっていて全国くまなく供給しなければならないナフサに比べれば高いのは当然である。
因みに現在のナフサの価格は100ドル近辺で推移している。以下にその根拠を示したかったが、画像が不鮮明だったためご興味のある方はそれぞれ確認していただきたい、これを視ると仕入れ価格の違いがナフサ不足の原因という説明は無理筋のような気がする。以前私はこのような原油不足は世界的ロックダウンにつながるのではという懸念を示していた。果たしてEUの加盟国スペインでは原油不足が原因で市民暴動に発展している。あれほどホルムズ海峡封鎖に毅然とした態度を示していたスペインが皮肉なことである。さらに悪いことは重なるもので、同じ番組でエボラ出血熱の危機についても報道されていたので、このままの状態が続けばいずれコロナ禍に続く被害がヨーロッパ全体を覆てしまうかもしれない。そして現在の日本も類まれな高市総理の政治手腕だが、折角他国がうらやむ外交手腕にも拘らず、このような全く有り得ない処からの横槍が入る。確かにナフサやトルエンなど一般市民が関心を向けることはない、だからこそこれについての識者がとんでもない理屈をこねても市民は納得するしかないのである。
話は変わるが、とある国会議員が、高市総理は官僚のレクを受けない、総理としてあるまじき態度と言っていたが、自分の納得いくまで物事を精査する態度こそこの難局を乗り越えられる資質だと私は思うのである。

