彼岸旅行
さっそく、私は大きな声で「よし滝へ行こう」と叫んだ。その瞬間イトの顔に、うっすらと赤みがさし、同時に牛の歩みも僅かばかり早まったように感じた。
そんなイトを見ると、かなり興奮しているようだった。余程嬉しかったのか、今までイトの声を私はほとんど聴くことはなかったが、あれから私の横でイトはしきりに「ごおお、ごおお」と滝の水音をまねていた。
ところで私はイトの年頃にしては似つかわしくない「滝を視たい」という要望に、まだ納得しきれていなかった。「イトはいつ滝を見たの」イトは嬉しそうに答えた。「テレビで見た」私は聞き返した「じゃあ本物は見たことないのかい」イトはこちらを見据えて黙って頷いた。
しばらくするとまた牛の動きがぴたりと止まった。外を覗くと目の前には、見渡す限りの雲海が広がっていた。私たちは丘の上から雲海の広がる様子を眺めていたのだ。私はここがどれほどの高さなのか見当もつかなかった。そして、この丘の端は垂直に切り立った崖になっていて、良く観るとその崖に沿って１本の細い道が下界へと繋がっているようだった。
さらにこの道幅はちょうどこの牛一頭が通り抜けれるくらいの幅しかなかった。にもかかわらず、牛は何事もないかのようにその道を下りだしていた。雲海は道の行く手を塞ぐように道を覆ていたのだが、牛は歩みを止めなかった。
この道は牛にとって窮屈そうだったが、特別狭くはない、むしろこの牛がでかすぎるのだ。ともすれば私たちの潜り込んだ牛の角は牛が首を傾けるたびに、道幅から外れてまるで宙に浮いてるようだった。
その度にへその下あたりがムズムズするのを感じた。その感覚は私に昔し公園で遊んだブランコのことを思い出させた。私が子供の頃は公園にあるブランコの椅子には腰掛けずに、ブランコの椅子の上に立ったまま足を踏ん張て漕ぎ出したそうすると、ブランコは弾みがついてすぐに地面と平行になるまで揺らすことができた。そんなときはへそと空が真直ぐ向き合ってまるで体が空に浮かび上がってるような感じがした。そこから地面に向かって戻る時には、へその当たりがムズムズしてとてもこそばゆかった。
そんなひやひやしたこちらの思いを知ってか知らずか牛は崖に沿って黙々とその道を下って行った。まもなく牛は雲海に沈むように雲の中に入っていった。雲の中は真っ白で時々牛の足元を見失うほどだった。