今日のできごと
2021年 一切皆苦とは
このまま、まっすぐ読むと「世の中には苦しかない」と読み取ってしまいます。
「えっ、ほかに読みようがあるんですか」
といえば学問に全く疎い私は、自分勝手に「すべての現象は苦しみを原因として起こってくる。」と解釈しています。「大して変わらん」と思われた方、もう少し丁寧に説明すると、苦しみを感じた人間はそこを解決しようとします。ここを解決できなければ、結構なダメージを食らいますが、ほとんどの苦痛を人間は乗り越えてしまいます。そこを成功と表現します。
一括りの感覚
どうでもいいことですが、何の脈絡もなく子供の喧嘩で「お前の母さんでべそ」と言われて。「俺はでべそじゃない。」と一括りにされたことを必死で反論するようなもんなんですが、今考えてもなんでこんなに腹立たしい思いになるのか分かりません、腹が立つというのは、こんな根拠のない嘲笑に同調してしまっているということです。まぁ、あまり細かいところに目くじらを立てるのもどうかという話なんですが。
話を戻すと私たちはこの苦しみに対してそこを解消しようともがきます。
この状況をもって「苦は避けるべきもの」と判断してしまいます。ここを具体的な例で見てみると、呼吸がしたいという苦しみが起こると、空気を吸い込もうと肺を押し広げて空気を取り込もうとします。
連鎖の世界
また周りの酸素が薄ければ足を使って酸素を探し求めます。この状態をはたから見ると、とても苦しそうに見えます。
ところが、うまいこと酸素を取り込むことに成功すると、急に楽になって、この状態にある方が一切皆苦という言葉を聞くと非常に違和感を感じるところだと思います。すべてが苦しみとは言切れないのではないか、「これほど晴れ晴れとして楽しいこともあるのだから。「それではその楽しさは、いつまで続くのでしょう」ここでまた不安から苦しみが訪れます。
ところで、「呼吸は苦を感じさせる原因になったのですが、避けるべきものといって良いのでしょうか」という疑問が湧いてきます。むしろ呼吸は生存のためには、絶対必要条件のように思えます。となると苦も生存のための絶対必要条件となるのではないか、仏教は「苦からの解放」を教えてなかったか。あらためて仏教は私たちに何をどうしろと言っているのでしょうか。
それは、苦の連鎖から外れませんか?という教え
呼吸が出来たことは次の呼吸を望んできます。つまり「私たちが感じている世界では、この繰り返しが起こりますよ」というのが一切皆苦の教えではないでしょうか。いま楽しく感じていることも、その楽しさをいつまでも味わいたい、となれば渇望という新たな苦しみが生まれます。この連鎖は永遠に変わりません。この世はそのように出来ているんです。
壁の前で
ところで、いくら経典を学んでも、残念ながらこの連鎖からは離れることは出来ません。そこは学ぶよりも感じるしかない世界です。何万巻の経典を読破してもこの連鎖から離れることは出来ないんです。
そこから離れるためには、たった一つの実践しかありません。それは今という瞬間に身を置くことです。過去でもない、未来でもないその狭間、前にも行かない後ろにもひかない、それは達磨さんが壁に向かってひたすら座っている姿に現れているのではないでしょうか。その姿はわれわれに「今を感じ続けろ」と言っているようです。