思考ラボ
自分とは何だろう?の続きです。
昨日は自分の認識が現実のすべてだと言いました。当然、誰も賛同できないのではないかと思います。
そこで、この認識について、もう少し掘り下げたいと思います。まずはこの認識とは、どれほどの大きさのものなのでしょうか、つまり認識の許容できる範囲はどれほどあるのかなのですが、私は認識に際限は無いつまり無限大だと思っています。ミクロからマクロまでありとあらゆることが認識可能です。
私たちはこの認識の入り口を五感に頼りますが、それが、限界ではありません。人類は科学によって、もともとの五感で認識できない領域まで宇宙規模のセンサーを作り上げています。また、その認識を表現していくことにも貪欲に取り組んだ結果、様々な数式による理解や表現が生まれています。まさに無限大の認識であり、無限大の表現を我々人類は手にしてきたということです。
さて、私たちはここで得た認識をもって現実と理解していますが、この認識の根底には一つのルールが存在しています。それが時空、光の存在です。この存在無くしていままで述べた認識は成り立ちません。
整理すると私たちの感じる認識は、すべて自分の中で起こっています。その大きさは無限大で現実はその無限大の認識の中に存在するものです。また現実と私たちが認識するものはすべて、時空と光によって存在できるものですが時間が存在すれば、その経過によって現象は常に変化し因果律を形成し、そこから外れることはありません。
これをストーリーの世界と呼んでいます。私たちが現実と感じているのはこのストーリーの世界のことです。私たちが普段違和感や、喜び悲しみ怒りを感じているのも実はこのストーリーの世界です。
また鏡に映る自分もこの認識の一部にほかなりません。日々鏡を見ていると時間と共にいずれ朽ち果てる存在であることがよくわかります。
ところで、時間は現在過去未来と言うように、未来からやってきて現在を経て過去として過ぎてゆきます。
未来は誰も体験したことのない世界で、起きてみなければ、あるのか無いのかさえ分からない世界です。ではその反対に過去はといえば、記憶の認識として存在していても、全てはすでに過ぎ去っていて、現存する存在とは言えません。
現存している存在として捉えることが出来るのは今という瞬間でしかありません。ところがこの今こそ時間で区切ることが出来ないものです。
さて、「自分とは何か」を考える場合、自分も自分の認識の一部であり、認識には時空に囚われた現実の認識と同時に今存在しているという絶対的な認識があります。この絶対的な認識については、ストーリーのように、言葉では表現できません。そこを感じる方法があるとすれば、瞑想や座禅によって今と向き合うことしかないのではないかと思っています。
結論ですが、自分とは自分の持つ認識の一部であり、認識についてはストーリー上の自分と、現存する存在としての自分が同時に存在します。ストーリ上の自分とは、生まれては滅する存在であり、現存する自分とは時間を超えた存在のため、もともと形の区切りやそこで起きる感情の移ろいもありません。禅の世界では寂然不動というそうです。なので私にとってのリアルで現存する自分とは「今ここに在る」時の自分です。
またストーリー上の私とは、日々悲しんでは愚痴を言い、怒っては笑い転げる、とってもお恥ずかしい存在です、もし自分が自分を認めてあげなければ誰が認めてくれるのでしょうか「現実とはすべて私の認識でしかないんです。だからやっぱり、これでいいのだ!」
※ 瞑想や座禅にも方法があるようです。体質によっては体に影響が出ることもあるので、知識のある方の指導を受けられることをお勧めします。興味のある方は「かんながら」という阿部敏郎さんのブログを覗いてみてはいかがでしょうか。