彼岸旅行
今日はお彼岸
旅立ち
「せっかくですから、一緒に出掛けませんか。支度はいりませんよ何でもありますから、そうパジャマのままででも大丈夫です。では、あなたの一番近くにあるドアをそっと開けてください。真っ暗ですが心配いりませんよ、私が足元を照らしますので、そのままそっといらしてください。それから途中ご一緒する方がいますが心配いりません。あなたの身内のようなものです。ではどうぞドアを開いてお進みください。
どうですか、毛足の長い固めの絨毯のようでしょ。それに足元がちょっと温かくないですか、実はこれ牛の背中なんです。もうすぐ動き出しますので、その辺にお座り下さい。動き出したら揺れますので、転がり落ちないように、その辺の毛にしっかり、しがみ付いていてくださいね。そうそうこちら先客のイトです。歳はまだ4つなんですが一人で参加してます。詳しい事情は私にもわかりませんので、よかったら相手をしてあげてください。
さて、空が白んできました。そろそろ出かけましょう。」言葉が止むと同時に、地の底から響く牛の雄叫びがあたりに響き渡り、巨大な牛の背中がゆっくりと動き出した。
気が付つくと、あたりには草の臭いと獣の臭いが混りあう強烈な臭いが満ちていた。確か牛の背中と聞いたが、いったいこの巨大な牛は、これからどこへ向かうんだろう。私はそんなことさえ知らずに、だまって牛の背中に腰を下ろしている自分の軽薄さにあきれ返っていた。そう思うと時間が経つごとに心配になってきた。
私は今起こっていることを整理するために、これまでのことを振り返った。そういえば、私が寝床に入ろうとすると、どこからともなく急に声がして、その声に促されるとおりに私は、ドアの外に出てしまった、それから何の抵抗もなく牛の背中で揺られていたのだ。
普通は、初めて聞いた男の声に驚いたり怪しんだりするものだが、その時の私には、何の警戒心も起こらなかった、むしろその声に懐かしささえ覚えたほどだった。
明日は連休明けの仕事で、私としては久しぶりに早起きしなければならず、少々気が重く感じていたところだった。私はただ声に導かれるままに着の身着のままドアから外へ出てしまっていた。ところが、今自分の姿をみると身支度はすっかり整っていたのだ。
連休前は今度の連休こそ、混みあった街から離れて静かなところでアウトドアを楽しみたいと思っていた。そのつもりで連休前からせっせとアウトドアの準備をしていたのだが、連休が始まるとさっそく急用が出来てしまい、アウトドアの予定はすっかり潰れて、残りの時間は結局家でTVを視ながら過ごしてしまったのだが、今の私は、それどころではない、いつの間にか行くへも知れない旅に出かけているのだ。都合のいいことに、無駄になったと思われたジャケットとトレッキングシューズを今はきっちり身に着けているのだ。
さて私が牛の背中でしばらく揺られている間、牛はゆっくりと光のさすほうへ進んでいた。牛の頭の方を見ると、とがった山ほどに見える角が上がったり下がったりしているのがわかった。
そこへようやくそこへ光が差し込んできて、身の周りのことがよく分かるようになってきた。
ちなみに私が乗っている牛の大きさに比べると、私の体はネズミほどの大きさでしかなかった。つまり2階建住宅の屋根に人が乗っかっているようなものだ、恐らく地面までは10メートルほどの高さがありそうなので、こんなところから振り落とされでもしたら、きっとただでは済まないだろう。
私はその高さに恐れを感じていたところで、たった一人で牛の背にしがみついている男の子が目に飛び込んできた。その子は体を伏せたまま目だけで牛の頭が上下するのを追っていた。
やはり振り落とされるのが怖いのか、両手でしっかり牛の毛を握りしめていた。それにしても、その子の表情を見ていると、怖さで震えているというよりは、むしろ好奇心で輝いているように見えた。私も子供のころは好奇心の赴くまま、あのように目を輝かせていたのではないだろうか。
出会い
そう思うと私は急にその子と話がしたくなって、その子に声をかけてみた「おーい 大丈夫かい」
ところが、その子はこちらの呼びかけに全く反応してくれなかった。私の声が聞こえなかったのだろうか、あるいはひょっとして子供に特有の人見知りなのだろうか、私は試しに先ほどと違う声かけをしてみた。
私は出来るだけ楽しそうな声で子供に声をかけた「ねえ、おじさんとお相撲捕ろうよ」実はこの声かけは、私の叔父が家に遊びに来た時に、私が人見知りなのを知っていて、なかなか打ち解けない私と一気に距離を縮める方法だった。
あんのじょう子供は頭を上げてこちらを向いた。「しめた」私は心の中でつぶやくと、すかさず立ち上がって腰を引きながら両手を広げた、すると子供は頭を下げたまま躊躇なく私の懐に飛び込んできた。私は子供に押されて仰け反るようにしてから、「お強いな」と言いつつ子供の足を引っかけてその場に転がした。そしてまた先ほどのポーズ、こどもが先程より力強く懐に飛び込んでくると、今度は子供の脇腹を抱えて振り回した。子供と打ち解けるのは、これで十分だった。
私は息を整えながら子供に尋ねた「イト君かい」子供はちょっと驚いたようにこちらを見た。「君の名前は、さっき私を案内してくれた人から聞いたんだよ。」まだ、不思議そうにしていたので先ほどの案内人を探したが、その場にはいなかった。
その時私は自分の記憶を辿ってぞっとした。「わたしは、あいつの風体も、顔も見ていない、記憶にあるのはあいつの声だけだ。」 ところで辺りには自分の部屋どころか建物の影すら見えなかった。いったい私は、今どこにいるのだろうか。あたりは一面野原のようで、私たちを乗せた牛はその野原をどこかに向かってひたすら進んでいるようだった。「イト君、この牛何処に向かってるか知ってる」イトは私の表情から何かを読み取ろうとしているかのようだったが、だまって顔を横に振った。やはりその目は不安げだった。