思考ラボ
2024年 1月14日 国家という認識
さて言葉の発明により、人類は現実という因果律に支配される世界から概念という因果律を飛び越えた世界を垣間見ることが出来た。要するに理想世界を実現させる正義の世界とそれにあがなう悪の世界だ。ところが人類の理想と言える正義の世界を現実に反映させることは容易ではない。
恐らく人類が自我という認識を持った瞬間から、このようなギャップに苛まれる宿命にあるのだろう。そのことを東洋では陰陽の2元世界で表現している。そして日本の神話でも光の闇でこの世の誕生が表現されている。ところが言葉で同時に真逆のことが存在することを表現しようとすると言葉に詰まる。なので仏教の宗派ではこの世界の有り様を言葉で解釈することは極力避けようとする傾向がある。
さて話がずれてしまったが、本来人間の持つ欲望を理性で抑え込むにはかなりのギャップが出てくる。そこで生み出されたものが人間のグループが持つ社会規範であり、そのグループが国家を形成しているとすればそこには法律というものが存在しているだろう。
この流れを最初から整理すると、カリスマの存在でグループが出来、そこから理想という概念が生まれた。そして個人の資質に集団が追従するという社会モデルから発展して、理念に集団が追従するという社会モデルが生まれてきた。理念の実効性においては、いまだに生身の人間が必要になる。このような必要性から王の権威は神によってもたらされたという思想が生まれた。つまり国王が神聖なる神の意志によってこの世を統治するという体制が出来上がった。とはいえ政を行うというのは現実と理想、光と闇のギャップを同時に埋めるという過酷な仕事だ。時として武力による強引な政治もあっただろう度々民衆との間で諍いが生まれている。
革命と唯物論
さて社会が成熟してくると、支配者と被支配者という2つの立場が鮮明になってくる。このような状況で支配層が被支配層に対し過度な要求を講じれば、2つの階層に対立が起ってしまうのは必然だろう。このような対立構造が生まれている中で絶対的な理想世界が文字によって示されれば、民衆は本来矛盾した性質を抱える生身のカリスマなど顧みなくなるだろう。やがて民衆は自分たちと同じ立場にある民衆の中から自分たちの理想を実現させるための代表を仕立て上げる。これが現在に通じる民主主義や共和政治で特に活躍したのが有産階級という時代の成功者だ。
ところがこのように生まれた社会はこのような成功者ばかりではない。今度は商業における資本家と労働者の対立が表面化し、社会主義革命がおこる。これにより労働者は自分たちの手で新しい社会を実現しようとするがよほどの困難が付きまとうようだ。例えばスローガンには階級のない平等な世界という理想が掲げられたのだが、すぐに問題になるのは誰がこの社会を導いていくのかという問題だ。この点階級のハッキリした資本主義社会は人間の欲望と相性がいい。要するに人間の欲望に寄り添って考えを巡らせていけば、およそのことは解決の糸口が見えてくる。ところが共産主義ではそのよりどころがハッキリしない、例えばパンを創るにしても、みんなが欲しがるおいしいパンを作るというコンセプトよりは、いかに同じ基準のパンを平等に分配できるか、ということがパン作りの動機になる。
また個人が勝手にパンを創り出せばパンには様々な違いが出てくる。味はもちろん、大きさ固さなどまちまちだ、これでは公平な富の分配にはならない。こうなるとパンの価値は美味しさという基準から離れて、食料としての最低限の基準を満たすことにその目的は終始してしまう。つまりすべての基準が最低限の基準を満たすことにシフトしてしまうのだ。
なぜ日本が最も成功した社会主義国と言われたのか
これはかつてのソビエト連邦のスターリン書記長の言葉だが、こんなことを言われたのは日本が資本主義国家であるにもかかわらず、最も富の分配が成功している国という評価になったのではないだろうか。というのも日本人は誰に強制されるでもなく労働を自主的に励み、周りの人が共に豊かに暮らせることを喜びとして暮らしてきたからだ。しかも日本人は近代的な経済活動を営みながらも、同時に太古より続く天皇制を維持している国でもある。まるで世界史に取り残されたような特異な歴史を持つ国それが日本だ。
見えない意志
ところで、日本人は年初の事故でも見られるように、時として自分の命をも顧みず社会に貢献している。これは世界でもまれな現象なのだそうだ。ではこれが後天的な教育によってもたらされた日本人の資質なのかといえばそうは考えづらい。なぜなら日本の教育では日本人が特殊で優れた民族であるような教育はされてこなかった。むしろ過去には恥ずかしむべき戦争をしたというように伝えられているからだ。この点において日本は日本の歴史を非難する国に対し誠意ある説明をしてきただろうか、つまり国としての事実認識をしっかり検証しこれを相手国に説明してきたのか疑問である。これについてはすでに虚言であったという本人の言葉がありながら、何故政府は正しい見解として世界に公表しないのか、むしろ事実確認を曖昧なままにしてその場しのぎの対応で片づけてはいないだろうか。これによっていまだに日本人のプライドは傷つけられたままだからだ。
さてここまで私は日本人の優れた社会性について述べてきたが、社会性といえば地球上にはもっと不思議な生き物がいる、それが昆虫という生き物だ。私にはこの不思議さは、我々の知る知識の世界を遥かに超えた叡智が存在しているようだ。例えば蟻の中でも葉蟻という生き物の社会性には驚く、集団が水に流されれば団子状態になって集団を護ろうとするが、水に浸かった個体はその場でおぼれ死んでしまう。また蟻の通り道に断絶があれば、葉蟻は自分の体を次々繋げて見事な橋を架けてしまうのだ。この小さな体の脳みそのどの蟻からどんな指示が出ているのか。私はこのような生き物の生態を見ると命は個体だけでは完結していないのではないかと思ってしまう。
因みに依然視た進化論で有名なダーウィンをテーマにしたテレビ番組でダーウィンは蘭の研究をしきりにしているところだった。というのもダーウィンが研究対象とした蘭は蜜を出さずに花粉の擬態を使って蜂を集めているというのだ。以前もハンマーオーキッドはチニドバチの擬態によって受粉していることをご紹介したが、今回の番組で取り上げられている蘭が蜜を出さないということは、どんな昆虫でも引き寄せているということではなく、特定の蜂だけを狙って受粉を促しているらしいのだ。このことで言えるのは蜂が環境に合わせて自分を変化させたのではなく植物が蜂の特性に合わせて変化したということだろう。これでは卵が先か鶏が先かの話になる。このことで最も簡単な答を考えると、このようなことが起こるためには、これを仕組んだ第3の意志が存在するということではないだろうか。
もしそうなのだとすれば、植物も昆虫もその意志をかなり直接的に受け入れ具現化させることが出来る存在なのかもしれない。つまりもっと具体的に言えば、昆虫も植物も直接神の意志と繋がっているということではないのだろうか。というのも日本では昆虫や植物は神的な使いとして表現をされることが多い。そういえば日本人は鈴虫の鳴く音を楽しむことが出来る唯一の民族だとも言われている。だとすれば日本人は鈴虫から神代の世界のことを意識しないながらも受け取っているのかもしれない。それはきっと自然の秩序と共にあることが人類にとっても繁栄につながることなのだと。そして間違いなく日本人にあの声を聞いて腹を満たそうなどと思う人はいないはずだ。