思考ラボ
2024年 6月3日 縄文を語る人には
気を付けろという言い方をする人がいるらしい。このブログでもさんざん縄文文化について取り上げてきたので、そのような噂話からすればこのブログも気を付けなければならない対象になる。ではなぜ気を付けなけねばならないのかについては、この言葉を使ってかつてのカルト教団のように悪いことをする人がいるらしい。私が残念に思うのはこのような噂をそのまま受け取ってしまうと、宗教を信仰すること自体が、気を付けろの対象になってしまわないだろうかと思うからだ。私があらゆる宗教する非難に対し沈黙しているのは、このような危険性をはらんでいるからだ。
結局信仰心は最終的に自分の判断で受け入れるかどうかを判断しない限り絶対に成立するものではない、それを受け入れるかどうかは、最終的に個人の魂にあるからだ。つまりいくら肉親が信仰を勧めても自分の魂が信仰を受け入れない限り信仰は成立するものではないと思っている。このこととは別に、宗教を無理やり勧める行為や本人の意思に反する寄付の強要などは、当然民事や刑事罰の対象になると思っている。わたしはこのような不正に対する警察や公案の介入は過去の例から言っても必要なことだと思っている。このように宗教を語って己の懐を肥やそうとする輩から、宗教はいつのまにか汚名を着せられてしまうのである。
ところで、私はたとえこのような噂が流れていても縄文文化に対するリスペクトは変わらない。その理由の一つは今現在起こっている戦争に対しての思いがある。現在この状況は極めて危険な状態にあり、我々の選択次第では、瞬時に人類が絶滅してしまう危険性をはらんでいる。しかもこれに対する有効な解決策を人類は未だに持っていない。このようなありさまを見れば人類はどれほど浅はかで愚かしいのかと絶望してしまうのだ。では何時からこのような状況に至っているのかといえば80年前の日本に対する原爆投下がその始まりになるだろう。
このような絶望的な現在の状況に対して、私が唯一見つけることが出来た平和の希望が縄文文化だ。この文化は縄文土器という特異なデザイン様式の土器から名付けられていて。同じような形状の土器はフアンネルビーカー族といわれ中央ヨーロッパや南米エクアドルでも発見されている。とはいえ、日本各地に圧倒的な量の遺跡があることからも、縄文文化は日本発祥と言っても間違いないだろう。そして最も重要なことはこの文化が1万6千年以上も続き、しかもその遺跡は何千年にもわたって使用されていた。このことは遺跡の住人が単なる狩猟採取だけでは起こり得ないことで、このような定住を可能にするためには、ある程度の農耕という技術が必要になるだろう。また農耕が起これば当然貯蔵の技術も必要になり、この技術は当然蓄財という概念も伴うことになる。
ところが、縄文人の住居跡からはそのような蓄財を外敵から守るための堀や土塁が見つからない。さらに対人用とみられる大掛かりな武器が発見されていないことから、たとえ些末な諍いはあったにせよ集落同士が団結して争った形跡が1万6千年以上もの間見つからないのだという。私はこれこそ現代の我々が望む平和の希望ではないかと思うのだ。しかも遺跡からは体に障害を持つ者も同じ生活圏で暮らし命を全うしていたようだ、現代の成果主義で人の価値を決める非情な合理主義も当時は存在していなかったようだ。
そうはいっても現代のような医療技術の無い世界ではちょっとしたことで命が失われていったに違いない。しかしながらその医療技術の発展も人類全体の滅亡を止める力にはなっていない。
それでは現代の科学技術の粋を集めても回避が難しい戦争を縄文人はどの様にして回避できたのか、これは私の勝手な予想だが、彼らは暮らしの中に天のもたらす恵みの基に暮らすという認識があったのではないだろうか、つまり彼らは農耕や様々な技術を自分たちの知恵や技術とは考えず、あくまでも天の恵みとして捉えていた。そうだとすれば天の恵みには際限がなく、他から争って奪う必要がない。誰もがただ感謝し受け取るばかりなのである。また肉体の死についても、彼らは、その叡智によって受け入れることが出来たとは考えられないだろうか。恐らくこの世界にも稀な縄文文化の研究はこれからも続いていくに違いない、そこには未知の希望となる思想が溢れているかもしれない、だとすればその希望をカルトな陰謀論のように扱われるのは残念でならない。