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思考ラボ

2024年7月26日gallery,ようこそ

2024年 5月2日 AIからの挑戦状

といっても本当にそんなものが届いたわけではなくて、サムネの中にAIが俳句を解釈したらこうなった。とあったので覗いてみたら松尾芭蕉の「雲雀より空にやすらう峠かな」というこの句に対するAIの解釈が載っていました。因みにこのAIは石松圭一氏といい株式会社EmolutionCareerの製作によるAIだそうです。
このAIについては人間の感情に興味があり、「世界の、プラス感情の総量を増やす」ことをミッションにしているそうで、このことには私も大いに興味をそそられるところです。

さっそくこの句に対するAI氏の解釈を見てみましょう。この記事を引用すると、「雲雀より空にやすらふ峠かな」という句は、自然の中での平和と静けさ、そして一瞬の逃避を捉えています。この俳句は、雲雀が空高く舞い上がり、そこから見渡す峠で感じる安らぎを表現しています。4月の時期のイメージとして、この俳句は春の訪れとともに自然が目覚める様子、そしてその中での人間の感情の移り変わりを描いていますと書かれていました。

確かにこの句の単語を繋ぎ合わせて解釈するとAI氏のような解釈になると思いますが、では芭蕉はこの句を通して本当は何を表現したかったのでしょうか。私も奥の細道に触れる前は芭蕉の俳句は徹底的な観察による自然主義の俳句だろうと想像していました。というのも奥の細道は、2万4千キロを実際に旅しながらの創作であり、このことから芭蕉は徹底的な現場主義者というイメージが定着していたからです。ところが、奥の細道を読むと実際には現場に到着する前に句が出来上がっていたという場面に何度も遭遇します。何を言いたいかと言うと松尾芭蕉の句は、目に映る景色をそのまま俳句にするということ以外に、芭蕉の思いを俳句によって表現するという試みを感じるからです。

例えば奥の細道では、序文から旅への思いを西行法師に重ねたり、或いは潜在的にある義経への憧れを募らせている場面などです。特に私が奥の細道で感じるのは、芭蕉の禅に対する見識の深さです。そのことは芭蕉が深川に居を移した時に出会った仏頂禅師からの影響を感じます。実際芭蕉は仏頂禅師に、悟りの印可を得たとされています。このことを私は奥の細道で有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」という句に感じています。また、禅の世界では悟りの境地を山に例えることがあります。大変有名なところでは「独座大雄峰」という言葉で、この言葉は弟子が修行のご利益について百丈禅師に尋ねたところ、禅師は弟子にこのように答えられたと言われます。つまり悟りの姿を揺ぎ無い峰に例ることは臨済宗に学ぶ僧にとっては珍しいことではありません。

因みに芭蕉が詠んだこの句では、峰ではなく峠かなと表現されています。ということは、芭蕉はこの句で悟りの境地を伝えたかったのではなく、悟りに至る行程を表現したかったのではないかと考えています。というのも峠と峰の違いは、峰は山全体の姿を指しますが、峠は山の頂に至る道を表現しているからです。

そのような芭蕉の思いを心に据えて、改めてこの句を味わってみると、雲雀は春の季語ですが、ヒバリには地上から天めがけてまっすぐ羽ばたく特徴があります。つまりヒバリは目標に向かって一足飛びに駆け上るという象徴ではないでしょうか、そのことからもし、芭蕉が和敬清寂という悟りの境地に至る行程を表現したのだとすれば、その道は曲がりくねりながらも、一歩一歩たえず歩みを進めなければならない道なのではないでしょうか。そしてその道を歩み続けることで、ヒバリが一気に至る空よりも、さらなる高みに至ることが出来ると言いたかったのではないでしょうか。

整理すると、芭蕉が雲雀を使って表現したかったことは、目標に向かって一気に至ろうとすることではなく、日々の積み重ねこそ、より高い境地へと至る道であると言たかったのではないでしょうか。

それにしても言葉の世界は奥深いですね、もし京都の方に「ぶぶづけでもおあがりやす」といわれても言葉通り受け取って「それではお言葉に甘えて」などとは言ってはいけません。「これから用事がありますので、せっかくですがお暇します」というのが正しい回答になります。

とはいえ、これをAIに期待するとすれば、AIも生身の人間同様、嘘つきになってしまうのではないでしょうか。

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Posted by makotoazuma