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思考ラボ

2024年11月17日gallery,ようこそ

2024年 8月3日 認識の階層

認識とは主体が対象を把握することを意味するそうだ。これだけのことなのだが、主体とは何かと聞かれれば、たちまち大変な論争が持ち上がる。常識ある人は主体と言われれば自分と答えるに違いないが、私にその問いを投げかけられると質問者はどの自分のことを聞きたいのかと考えてしまう。つまり私の中にはすでに2つの見方の出来る自分が存在しているのだ。とはいえそれは違った自分が存在しているという意味ではなく、表現の階層が違っているという言い方が適切なのだと思う。

というのも私は無意識が本来の私であり、実体であると思っているからだ。ところがこの実態は時空間にある存在ではないと思うので、これを言葉で表現することは出来ない。そこで登場するのが現在PCの入力を行っている肉体を持った現象世界の私だ。ところがこの肉体には生まれては消滅するというストーリーが決まっていて、これにより肉体における私は常にこの恐怖に翻弄されている。私はこれが苦というものだと認識している、とはいえこの苦しみは切ないほど手強い。

ここで、先ほどの表現の階層に話を戻すと、一つはすべての記憶を共有する何も動かない無意識の自分と、生きては死ぬという常に感情で揺れ動く自分がある。これを2つの階層で捉えると同じ自分でありながら、階層の表現によっては死ぬことの無い自分と、肉体の死に常に怯える自分が存在していることになる。

これを同時に同じ階層で表現できないのは現象も文章も同じ片方の階層にあるからだ。私が普段日本を護るためになどと息巻くのは、あくまでも肉体を持った階層の自分のことで、だったら時空間に起こる事象などどうでもよいと考えられるかもしれない。ところが一方で私は無意識の世界は現象と個性が感じた感情の融合で創られると思っているので2つの階層は別々に存在することはないとも思っている。

まるで鶏と卵のロジックのようだが、私はこれを一対の構造体ように思っている。何故そんなことを思うのかといえば、私たちの個性は目が覚めると飯より先にストーリーを求めだす。昔はよく新聞を片手に親父がトイレにこもったり、TVからニュースが流れていた。あるいは映画や小説テレビドラマや、お芝居、パソコンゲームまで、我々は気づくと、朝から晩までこれに触れようとしているのだ。これはもう人間の宿命と考える他ない。

ところで、誰もが一斉に同じストーリーを追いかけることにはどんな意味があるのだろうか。もし原作の映画や小説がそれのみで価値が決まるのだとすれば、一方の鑑賞者には何の価値もないことになる。果たしてそうだろうか私は作品は鑑賞行為によって最終的な価値がもたらされると思っているのだ。つまり世の中に様々な個性が必要な理由はそこにあると思っている。

ところで物語は、我々の個性にハッピーエンドやバッドエンドなど様々な感情の変化をもたらしてくれるのだが、その結果のことを考えれば、私は無謀にもなるべく幸せな記憶が無意識世界に刻まれてほしいと思うのだ。なので肉体を持った私は現代社会の向かうところが大いに気になってしまうのだ。もしもこの世界が、私の危惧するバッドエンドに向かってしまい、世の中に怒りや憎しみが満ち溢れることになれば、無意識の世界は怒りや悲しみの記憶で覆われてしまう。そうなることは絶対に避けたいと思うのだが、そう思うのはすべての個性が無意識という同じ実体を共有していると思えばこそなのである。

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Posted by makotoazuma