今日は好日
2022年 5月20日 今は今でしかない
何か突き放すような言い方ですが、これが一番馴染みやすいと思います。つまり、時間軸の中で考えると今は存在しているが捉えることが出来ないというイメージになります。これを羊羹に例えると?決して誰も羊羹の真ん中を見ることは出来ません。
それでも頑張ろうとする方は羊羹をCTスキャンするのかもしれません。例えそんなことを実行する方がいたとしてもそれは、実態ではなく羊羹の影です、それでも何とか今を表現しようとするチャレンジャーは、このような影でも追いかけるのかもしれません。
ところで今というものを言葉に置き替えようとした瞬間、今ということの本質は失われてしまいます。
どういう事かと言えば、前述のとおり今は時間軸では捉えることが出来ないものです。なので空間という捉え方も出来ません。つまり3次元空間に存在するということが出来ません。では今目の前にある空間や時間はどうとらえるのか、分かり易い例えがパラパラ漫画の例えです。今が2次元という幅を持たない存在とすれば、現象とは2次元世界が次々めくられるように展開していくようなものです。現象の初めに来る今を次の展開の原因になるように観測することで、現象世界に原因と結果のストーリーを展開することが出来ます。私たちはこのパラパラ漫画の展開を現実や現象として理解しています。不思議なことにこの現象という展開は言葉の世界にとても馴染みます。むしろ言葉が無ければストーリーには成り得ないのかもしれません。
先ほど今を言葉で表現しようとすれば、今という本質は失われると言ったのはこういう意味です。
では何故無理を承知で不可解な今を表現しようとするのかと言えば、現象世界は我々にとって息苦しい世界だからに他なりません。きっとどなたの思いにも「何故これほどの辛いことが世の中で起こるのか」という思いがあると思います、私の観察ではこの世に起こる現象は自立したプログラムがこの世界で働いている結果のように感じています。このような意識は次のような行動を促すというような、ドライなイメージです。私にはこのプログラムは現象に対して人間の感情的には中立なプログラムのように感じています。
では何故現象世界の実態をプログラムと感じるのかについてですが、今という存在については、形を持つことがないと考えるからです。形を持たずに現象に影響を及ぼすといえば、プログラムの表現がぴったりです。先ほど現象世界についてパラパラ漫画で説明しましたが、イメージとしては2次元世界が3次元空間で展開されていることですが、実はこのパラパラにも、誤解に繋がる大きな問題があります。
つまりこのような説明になると今というものがページをめくるように展開されると解釈されそうですが、パラパラの3次元展開が始まった時点でパラパラは今ではなくなります。では何になるかと言えば過去という記憶の世界になります。
結局このような言葉をつなぎ合わせるだけでも現象世界の所在なさを窺うことが来るのですが、では何故こんなややこしい世界が展開されるのかということです。それは何故このようなプログラムがあるのかという問いと同じことになります。
その探求については今の私はほぼ諦めています。無理やりつなげるとすれば、存在が可能性を体験したがっている、という思いです。
ところで、この問題の一番重要なところは、「現象世界は何故これほどつらいのか」という問いです。
私にとって、この世界から受ける印象はすべての衝動は不足から生まれているということです。息をすること、喉の渇きを満たすこと、腹を満たすこと、自分の存在を確かめること、これらの不足感からその解決がなされるまで苦痛というアラームが鳴りつづけます。そしてこの不足感が満たされた時にやっと幸福感で満たされることが出来ます。
つまりこれが現象界で起こる苦痛の原因になります。もともとこの現象界に身を置くということは、この流れに身を置くということです。
さてそうはいっても辛いものは辛い、痛いものは痛いんです。何とか逃れる方法は無いものかと考えます。これが宗教ではないかと私は考えるのですが、こんなことを書くと世の中全てを敵に回しそうですが、正直それもどうでもよいと思っています。
肉体の痛みは、薬で消し去ることが出来ます。自分が消え去る恐怖もありますが、それはもともとそのような自分は無いのだという理解によって沈めることが出来ます。自分と思っているのは現象についている名前のことです。本当にあるのは、測ることも数えることも出来ない今という存在だけなのですから。