今日は好日
2021年 9月22日 集合意識との繋がり
さんざん集合意識だ無意識だと言いながら何故それを受け入れることが出来るのかについてはあまり触れてこなかったと思っています。それは自分の体験からそう思い込んでいるといえば良いのか、ただしこの体験にはどなたも同じ体験になるというものでは無いので正直あまり触れたくないところです。ただしこのブログを始めてから自分の投稿と被るような話を聞くと最初は不思議な気持ちでいましたが、最近その頻度が増してきて何とか合理的な説明を頭で考えるのですが、どうしてもサイキックなイメージがぬぐえません、つまり集合意識と繋がるにはどうしたら良いのかということです。私にはこれ以上の説明が出来ません。
できればいつでも誰でも認識できることをこのブログには載せたいと思っていましたがそんなこだわりもそろそろ限界で、「そういう体験をしているのでそう書きました」といって何が悪いのだ。という開き直りともとられかねないような心境になっています。最近特に強く意識させられるのが動画の発信者が紹介した方の引用であったりゲストの言葉であったり、時間を辿って発信源を検証することは困難に思えます。私にとっては集合意識の存在とそことのコンタクトが出来ていることの証明になるのですが、この世界においても発信源についてのいさかいが絶えません。
さて今日は何故このようなお話をさせて頂いたかといえば小学生の悲しいニュースに触れたためです世の中「孤独が一番つらい」との叫びを残し12歳の少女がなくなりました。私にとって孤独はむしろ味わうべき時間なのですが、立場が違うと年の差があるとはいえこれほど認識に差できます。
いつものことですが、このような事件があるといじめた人間を責めてしまいます。しかしながらその見方で問題を探っていても問題の解決にはなりません。そのようなとらえ方をしてきていったいどれだけの時間が経過してどれだけの効果があったのか、ニュースからは端末機の操作や管理が問題にされているようですがそこに焦点を当ててもこのようなケースは無くなりません。もっと詳細に関わった人間の言葉のやり取りから心の動きにまで見ていかなければ、原因にはたどり着けないのだと思います。
ところでそのようなものの捉え方を世の中に期待していても時間がかかるだけです。ひょっとして今この瞬間同じ気持ちを抱いている方がいるかもしれません。そこで今同じように苦しんでおられる方には是非知ってほしいことが有ります。それは「貴方は孤独ではない無い」ということです。あなたの意識はすでに大いなる意識の中にいます。何故そう思えるのかといえば、私はそのような体験をしているからです。むしろ自我意識の中で凝り固まっている方が特別な状態と言えます。
ところで現実世界ではしつこいほどの嫌がらせを感じることが有ります、そんなことに出会ったひとは目の前に暗闇が果てしなく続いているように感じるかもしれません。ところがその暗闇もいずれただ過ぎ去るものです。
人生とは、いったいなぜそのようないやなことに出会ってしまうのか、周りを見渡せば水を得た魚のようにすいすいこの世界を泳いでいる方がいます。とてもうらやましく見えますが、それが人生の目的や正解ではありません。なぜならこの人生はどのような方がどのように生きても己の死が必ず訪れるという結果になります。誰一人この流れから抜けることが出来ません。ということは死に対してよほど無頓着な人でもない限りこの苦しみから抜け出ることはないんです。つまり全くの例外なしにこの世界はこの苦しみを基盤にして成り立っています。
昨日私が出会ったニュースですが集団が個人を攻撃してしまうこのようなことは機械が起こしたことではありません。私たちは等しく死の前では無力なのだという教え、大いなる意識の中に私たちは存在していること、多様な価値観は宇宙の望む目的であるということ。科学という方法論に限界があるのならそこを超えた教えに目を向けることも必要ではないかと思います。私たちの希望は子供たちにあります。
集合意識を確信する生き方が、私たちの希望のように感じます。ともに感じませんか一つの世界です。