独立自尊 奥の細道
笈(おい)も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)
芭蕉の義経聖地巡礼
この句から受ける印象です。この句は福島県飯塚にある佐藤庄司の旧跡を訪ねた時の句です。で、この佐藤庄司さんとは何者ということになるのですが、庄司とは名前ではありません、奥州藤原氏に仕えた佐藤一族の役職です。
またその地域を信夫群ともいわれ信夫庄司とも呼ばれていました。前に紹介したしのぶの摺りの信夫です。
さて、このあたりの芭蕉の手記を見ると史跡のいわれを聞いて芭蕉は涙をこぼしたとあります。なぜ芭蕉は涙をこぼしたのか義経の悲劇を知らなければ芭蕉の思いを察することは出来ません。つまり芭蕉は無類の判官びいきだったということです。
ではなぜ、芭蕉はそこまで義経が好きだったのか、なにか生い立ちに理由があるのだろうか、様々思いを巡らしましたが、結論は出ませんでした。ただ当時の江戸庶民の間では判官びいきは当たり前に受取られていて有名な落語に「青菜」というのがあります。
では、芭蕉がわざわざ史跡を訪れた義経と佐藤庄司跡の繋がりはどのようなものだったのでしょうか、義経が屋島の戦で平家と戦ったおり佐藤継信は義経の身代わりとなり討ち死にしてしまいます。その弟忠信は最後まで義経に従い最後を共にします。悲劇のヒローでありながら義経にはこのように人を引き付ける大変な魅力があったようです。義経の魅力といえば、歌舞伎の「勧進帳」「義経千本桜」が有名です。芭蕉がなくなった後の作品ですが義経愛を満喫するためには参考になるのではないでしょうか。
ところでその弁慶が背中にしょっている箱のようなもの、これがご紹介の句にある笈というものです。木製ランドセルといえば分かりやすいかもしれません。中には香炉や経文、鈴など入れられていたようです。また、この句にある笈とはつまり弁慶が使った笈のことで、太刀とは義経が使った太刀をさします。
史跡を訪ねた芭蕉は傍らの寺でここに宝物としてこのようなものが伝わっていると笈と太刀についての説明を受けたのでしょう。
ところがそのことを聞いて、芭蕉は少し不満を持ったようです。武勇の誉れである義経と弁慶の遺物は端午の節句にこそ飾られるのがふさわしいと、強めの言葉を使って義経、弁慶への気持ちを、この句に詠んだのではないでしょうか。
冒頭にある図は紙幟を飾った節句飾り様子です。子供たちが飾られている兜屋、薙刀などの武具を憧れの眼差しで眺めている様子がわかります。ところで旧暦の5月5日は現代の6月21日にあたります。この句にはこれまで芭蕉の達観した受け止め方とは異なり随分気持ちの高ぶりを感じます。