独立自尊 奥の細道
判官びいき
今回は源義経についての情報コーナーです。前回の笈も太刀の句についての情報なんですが、実はこの句以外にも「野を横に」の句なども義経とは深い関わりがあります。この句は那須湯本にある名所殺生石
を訪れた辺りで詠まれた句です、この那須湯本の那須も源平合戦で武功を立てた那須与一という武将にちなんだ地名です。那須与一は義経の配下で屋島の戦いに参戦し平家の軍船に掲げられた日ノ本の扇を一本の矢で射抜き義経軍に勝利をもたらしました。このように奥の細道は義経の足跡と深く繋がって行きます。
ということで、奥の細道をじっくり味わうために義経情報を整理しておきたいと思います。何度もお断りしますが、ここに在る記事は情報のソースもネット検索と私の推論で成り立っていますので、全く学術的なものでは無いことを最初にお断りしておきます。
それでは判官びいきといえば、強気を挫き弱きを助く日本人の持つ大事なメンタリティーです。このメンタリティーはアウトローの世界つまり人強の世界まで繋がっていますのでかなり根深いものがあります。そんな心強いイメージの一方で、「出る杭は打たれる」という言葉も日本人のナイーブなところも表します。
それでは、義経伝説の概要について見てみましょう。
そもそも、源平合戦は1180年から1189年までつづいた治承・承久の乱と言われます。最終的には奥州藤原氏の滅亡をもって一括りとされ、およそ9年間も続いた戦ですが単純に平家と源氏の戦いと割り切ってしまうことが出来ない複雑さが有ります。なぜ、俳句の世界にそんなややこしい歴史問題を取り上げなければならないのかというと、奥の細道を辿るとどうしても義経との関わりが見えてくるからです。なので、奥の細道にご興味のある方には、必要な情報と考え是非ご一読いただければと思います。
さて義経の生涯が悲劇となってしまった原因は源平合戦の背後にあるパワーバランスにあると思います。その影に隠れた2人のキーパーソンとは、一人目は後白河上皇は院政を引きながら平家にも義経にも悲劇の影響を及ぼしています。そしてもう一人は藤原秀衡です。この藤原秀衡こそ義経最大のバックボーンでした。
私は平清盛が西の天才なら東の天才はこの藤原秀衡ではないかと思います。ともにたぐいまれな商才を発揮して東西の都を盛り上げます。そして義経はこの名プロデューサーが生み題した悲劇のヒーローではないかというものです。
ヒロー大活躍3つの戦い
1の谷の戦い
この戦いでは範頼の本体に対し敵の背後から挟み撃ちにする戦法です。現在の神戸あたりにおける戦いです。この時有名になったのが鵯越(ひよりごえ)馬で断崖絶壁を駆け降りて、敵の背後をつく作戦。案の定敵はスキを突かれて総崩れになります。
屋島の戦い
この戦の決着は那須与一が敵の扇を射抜き決まりました。
壇ノ浦の戦い
云わずと知れた壇ノ浦の戦い、今の下関にかけて鳴門が起こる潮の流れのきつい海峡での戦です。この潮の流れを義経が読んで海戦に不慣れな源氏を勝利に導いたとされますが、平家という海戦のプロが潮の流れを見誤ることが有るのでしょうか、とにかく平氏は頼みの綱の海戦で敗れました。その時の有名なエピソードに義経の「八艘飛び」が有ります。敵の矢をよけるため義経は軍船の上を刀をわきに抱えたままぴょんぴょん飛び越えたと言います。
このような逸話が残るほど、義経は合戦で勝ち続けます。ところで平和な世の中であれば、頼朝の心の中も喜びで一杯のはずですが、総大将頼朝にとって義経の活躍には複雑な思いがあったようです、もしこれほど強い相手が自分を裏切ったらと考えたのかもしれません。これ以降の頼朝はとにかく何かにつけ義経を遠ざけ最後は謀反ものに仕立ててしまいます。頼朝にとって義経は同じ源氏の血を引く兄弟なのですが、何しろ部下からは自分の命もいとわないほど慕われて、上皇からも直接寵愛を受けるようになってしまったのですから、その恐ろしさは半端ないです。後ほど義経の生い立ちで奥州藤原氏に触れますが、奥州藤原氏の存在も頼朝にとっては気がかりなところだったと思います。その藤原氏が後にライバルとなることを、すでに悟っていたのかもしれません。そのことは義経にとっては大変な悲劇でした。
ここで幼少期の義経を振り返ると義経の幼名は牛若丸と言い鞍馬山の寺で育ちました。ところがいつの間にかその寺を抜けだし平泉の藤原氏に厄介になっていたといいます。つまり頼朝にとって義経は、藤原秀衡に育てられた人間と映ったことでしょう。その証拠に藤原氏の血縁が平家との戦いで常に寄添っていました。
その血族とは、清衡の4男清綱の息女と信夫庄司佐藤基治と結婚し設けた子供のことです。佐藤基治は、なんとそのうち2人を義経の家来として源平合戦に出陣させます。二人の内兄継信は屋島の戦いで義経をかばい矢を受けてなくなります、さらには弟忠信も最後のほうまで義経に同行しますが義経と別れて間もなく頼朝の追手に殺害されてしまいます。
その知らせを聞き、兄弟の妻たちは儀母を気遣い、夫の武具を身に着けて儀母に到着の挨拶をしたという言い伝えがあります。そのことを寺の言い伝えとして聞いた芭蕉は涙をこぼしたそうです。
ところで当時の平泉は京都に次ぐ人口を誇り、とても活気づいていました。その基礎を築いたのが奥州藤原氏の藤原清衡です。ほぼ、3代に渡り100年続く歴史を誇りました。その3代目が藤原秀衡です、秀衡は早くから義経の才能を見抜き頼朝の対抗馬として育てていたのではないかと思います。
さて、義経といえば牛若丸、牛若丸といえば「今日の五条の橋の上、大の男の弁慶」について触れてみます。
実はこの弁慶、出自がハッキリしません。「吾妻鑑」でも名前は上がっていますが、詳しく書かれていないんです。特に京都の五条大橋でのやり取りは、五条大橋の存在が当時なかったことから、フィクションのようです。ただし、義経に取り巻きとして僧兵がいたことは事実のようなのですが、あまり素行のよい方たちではなかったようです。
では何故、義経といえば弁慶なのかといえば、物語を面白くするためのキャラクターのように感じます。何故かと言えば弁慶の活躍があまりにも人間離れしていてかなり創作されたキャラクターのように感じるのですが、おかげで義経の伝承は鎌倉時代にも人気の物語だったようですが、芭蕉の暮らした江戸時代にもブームが起こっていたようです。
では江戸時代の庶民の暮らしはどのようなものだったかと言うと、一般庶民の娯楽がどんどん開花していった時代のようです。そのような時代にあって俳句の世界もまた出版物として大変な需要があったようです。そのような時代に義経の物語は芭蕉にも大きな影響を与えるほどのブームだったのかもしれません。
このような義経人気を現代まで伝えているのは歌舞伎の勧進帳でしょうか、この歌舞伎が出来たのは奥の細道が発表された後の作品ですが、芭蕉が感じ入った世界を伺うことが出来ます。
因みに笈も太刀も五月に飾れ紙幟という句ですが、この句にある笈とは、山伏が背負う木製ランドセルのことを言います。では何故弁慶は山伏の恰好をしたのでしょうか。
義経は平家に勝利し京都に居ました。ここで後白河上皇から官位や所領について授けられたのですが、そのことが後頼朝の不興を買う原因になります。義経はこのように勝手に事を運ぶことには余程抵抗したようですが、結局受ける羽目になり、案の定、兄頼朝から謀反の疑いがかけられ、いきなり追われる立場になってしまいます。謀反といえばいつの時代も極刑にあたる重罪です。頼朝の手に落ちれば命はありません。
そのため義経は奥州藤原氏の秀衡を頼り、すぐさま都を立ち去るのですが、頼朝は街道に関所を置いて義経を捕まえようとします。義経は山伏の姿に変装して石川県安宅町のあたりにあった関所に差し掛かります。ところが関所を護る富樫左衛門は、義経一行は山伏の姿に変装していることをすでに掴んでいました。そこで山伏らしく振舞う弁慶に対し山伏であることの証として、勧進帳を見せるよう求めます。勧進帳とは当時戦で焼け落ちた東大寺を復興させるため後白河上皇によって全国に寄付の要請をした文書です。つまりそれを持っているなら山伏と認めようというものですが、当然弁慶はそのようなものは持っていません。さて弁慶はどのようにこの危機を脱したのでしょうか、ハラハラドキドキの物語ですが、江戸時代から有名な歌舞伎です。
芭蕉はこれから平泉まで向いますが、奥の細道はここから義経に対するピュアな思いがどんどん強くなっているように感じます。奥の細道が始まる辺りは、西行法師に憧れ漂泊の旅に身をやつす芭蕉の姿を思い描いていましたが、ここから意外な展開が始まりそうです。