独立自尊 奥の細道
物書きて 扇引きさく なごりかな
全昌寺を旅だった芭蕉は、西行が歌を詠んだ吉崎の汐越の松を訪れた。そこで芭蕉は西行の歌に敬意を表し、この地ではあえて自分の句を詠まなかった。西行はこの地で「夜もすがら嵐に波を運ばせて月を垂れたる塩越の松」という歌を詠んだが、この和歌は全昌寺に置かれた曾良の句を思い出させる。
ひょっとして芭蕉は、むしろそちらにスポットライトを当てたかったのではないだろうか。
この後一行は、天龍寺を訪れるのだが、ここまで見送ってくれた立花北支ともこの地で別れることになるのだ。そこで、詠まれたのが「物書きて扇引き裂くなごりかな」という句だ、奥の細道にも北支と別れ際に詠んだ句と書かれているのでこの句についての解釈に異論はないようにも思えるのだが、どうしても私は素直に受け取ることができない。この句をこのまま受け取ると、芭蕉は自分の扇子に何やら自分の思いを書き込み、その扇を引き裂いて北支に与えた、あるいは破り捨てたと解釈してしまう。確かにそれ以外の解釈は奥の細道の文章からは読み取れない。
ではこの当時そのような愛らしい別れの行為が巷にはあったのだろうか、そういえば私の青春時代には恋人同士がギザギザに裂かれたペンダントをお互いに首から下げるという流行があった。そんな流行りが江戸時代にもあったのだろうか、残念ながら、私はそのような流行りを江戸時代に見つけることはできなかった。では芭蕉のオリジナルなのだろうか。
そこで、扇にまつわる故事を探してみたところ班捷女と扇の故事が見つかった。漢の時代の故事で、女官の班捷女が成帝の寵愛を団扇にたとえて、その頼りなさを嘆いた故事だ。どうやら私のような俗人には、この句解釈にはこちらの例えがしっくりくる。そう思いながらネットの記事をあさっていたら能の演目に班女という演目を見つけた。
どうやら日本に渡った団扇の故事は、世阿弥によって能の演目にされてしまったようだ。内容はこれまた花子という遊女の話になる。花子と吉田の少将は出会ってすぐに恋仲となるが、やがて別れの時が来る。その時お互いの扇を交換して再開の証としたのだ。ところが少将が去った後の花子は、少将に思い焦がれて片時も扇を手放すことができない。
とうとう狂女となってあたりを踊りながらさ迷い歩くようになってしまった。ある日偶然少将は約束を交わした野上の宿にいた花子と巡り合う、そこでお互いが交換した扇を認めて再びつながることができたというハッピーエンドの演目なのだ。ところが、もしこの演目を意識して芭蕉がこの句を詠んだのだとしたら、再開の証とした扇は引き裂かれてしまい、ハッピーエンドは期待できないことになる。
ではこの句の初めにある物書きてとは何を意味しているのだろうか、私はこの文は奥の細道のもつ物語性を意味しているではないかと考えている。つまり芭蕉は再会の思いを扇という表現を借りて引き裂いたのではないだろうか。このことで芭蕉は萩との再会を自ら閉ざしてしまった、そのなごりを芭蕉はこの句で表現しているのではないだろうか。このような視点に立って前回の全昌寺で詠まれた句を振り返ると、柳の葉に込められた芭蕉の思いは、そうやすやすと掃き捨てることは出来なかったのかも知れない。俳聖芭蕉の苦闘はまだまだ続く・・・