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独立自尊 奥の細道

2024年2月2日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

縁の下の力持ち河合曾良

奥の細道を読み進めるにしたがって、河合曾良が奥の細道に果たした役割の大きさに気づかされる。

河合曾良の生まれは1649年で芭蕉より5歳年下になる。長野県諏訪市で生まれ、19歳で長嶋藩主松平康尚に仕えるつまり立派なお侍さんなのだ、20代で俳諧を残しているが芭蕉との出会いは1684年以降になる。

ところで、河合曾良といえば実直で温厚、実務に長けて、吉川神道に通じ朱子学の解く忠孝の人でもある、ところが俳句の才能になるとあまり良い表現が多くない。では本当にそうなのだろうか、曾良と芭蕉が出会って奥の細道まではたったの5年である。そのわずかの期間で、多くの門弟の中から頭角を現し、芭蕉が今生最後の旅とした奥の細道の随行に選ばれたのだ。実際奥の細道で彼の手腕は大いに発揮される。その活躍は宿泊の手配から俳諧の段どりまで及んでいる。

俳諧とはライブコンサートのようなもので、この旅で開かれる俳諧は、宗匠直々のレクチャーが受けられるというまたとない機会だったろう、人気が無い分けがない、さらに詠まれた俳諧の記録のことなどを考えると、寝る間も惜しむ忙しさではなかったかと思われる。

ちなみに、奥の細道といえば、芭蕉忍者説という話を聞くことがある。なぜそのような話が出るのかといえば、おおまかに3つの謎があるようだ、もっともよく聞かれるのが芭蕉の健脚さだ。1日の移動距離の長さから一般人では考えられない健脚さなのだ、つまり奥の細道の全行程2400キロを1日に直すと、芭蕉は1日当たり40から50キロメートルを徒歩で移動したことになり、そんなことは一般人には不可能というのが謎の理由なのだ。そうはいっても、移動には馬も使えば船の使われている。また移動距離についてもお伊勢参りの平均移動距離は平均30から40キロも歩くそうだ、この距離は老若男女併せての平均なので、初老の2人とはいえ40代男子の体力では問題なさそうな距離に思える。しかも芭蕉は野ざらし紀行などを経験し旅には十分慣れているのだ。

では、もう一つの謎である、旅の資金についてはどうだろうか、通常旅には宿泊代や食事代がかかる。奥の細道は150日を要した旅で、通算するとその金額も相当な額になるはずだ、推定すると今のお金でも100万円くらいの費用がかかったのではないかといわれる。ただしここについても先ほど述べた通り俳諧興行をしながらの旅なので、費用については都度回収が出来、弟子からも直接の援助があったと考えられる。

この辺のとこは記録にないので想像するしかないのだが、現代に繋がる華道や茶道の宗匠が自らお出ましになるとなれば、粗末な扱いにはならないのではないかと思える。さらに考えを巡らせると、この旅には忍者説にもつながる、影のスポンサーがいたのではないだろうか。

それは、河合曾良の身分に関わることだ。河合曾良は奥の細道を終えた20年後、将軍から勅命の巡検使随行となっている。年齢で見ると還暦の年だ、平均寿命が80歳を超える現代でも還暦を過ぎて政府の勅命を受けるというのは目づらしい、よほどの実績のあった人でなければ理解できない出来事だ。では、河合曾良は、将軍から何の功績が認められてこのような待遇になったのだろうか、その答えはおそらく奥の細道の中にあったというのが私の推察だ。

私は、ここに河合曾良が奥の細道の随行に選ばれた理由があると思っている。つまり、河合曾良は幕府の命を受けて奥の細道に参加していたのではないか、また芭蕉もこのことを了解して奥の細道に随行させていたのではないだろうか。

それではこの時期、徳川幕府は河合曾良を通して、どのような情報を得ようとしていたのだろうか。奥の細道が始まったのは1689年で将軍徳川綱吉の時代だが、この辺りの政治的な動きとしては、各藩の動きのほかに宗門にかかわる情報も重要視されていたはずだ。特に禁制となった不受不施派の動向や耶蘇教、宗門人別改帳などを推進していくにあたって寺や檀家の状況等も事前にリサーチが必要だったのではないだろうか、このような必要性に奥の細道から得られる情報はかなり合致していたとは考えられないだろうか。今回河合曾良の肖像を剃髪した姿で描いたが、余計な摩擦を避けるため身分を偽った行動があってもおかしくない。

最後に奥の細道ではこの先、芭蕉と曾良は別行動になるのだが、奥の細道、曾良の日記ではその理由を腹痛のためとしている。しかしながら曾良の向かう先は、伊勢の長嶋の知り合いを訪ねたいということなのだ。このことと腹痛の病とはどのような関係があるのだろうか、一般的に病を治すために向かうところは医者の居るところのはずで、そのように考えれば向かうべき所は京都か加賀のはずだ。

では病がその理由ではないとすればどうだろうか、当時、伊勢の長島藩主といえば松平康尚である、ひょっとして河合曾良が旅を途中で終えた理由がここにあるのかもしれない。それにしても朱子学に通じる吉川神道を学ぶ曾良が体調不良を理由に、自分から師匠との旅を放棄するとはどうしても考えづらいことなのだ。

「きっとこれには、何か別の理由があるはずだ」というのが私が今思うところだ。

では次回の展開をご期待ください。