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独立自尊 奥の細道

2024年2月2日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

山中や菊は手折らぬ湯の匂い

奥の細道によると、この句は湯本を預かる主への世辞のように表現されている。つまりここに登場する菊は不老長寿の薬功があるという故事から用いられ、この湯の効能はその薬効に勝るといっている。

ところが、これから奥の細道がたどる旅の展開を考えると、この通りの解釈では先の展開が予想しづらく、大変表面的な文章に感じてしまう。つまり奥の細道の文章は、あくまでも表の解釈であり、その裏には芭蕉の赤裸々な葛藤の世界が潜んでいるのではないだろうか。奥の細道から受ける重厚感は、そのような多重構造の仕掛けが醸し出しているのかもしれない。

さて、この句の中で特に私が違和感を感じるのは菊は手折らぬという文章だ。もしこの文章に故事に倣った菊の薬効に注目させたいという意図があるなら、故事に引用される菊の露という表現がなじむのではないだろうか。

そもそもこの故事は帝の枕を不用意に跨いでしまった童子が、咎めを受けて山に幽閉された際、帝が童子を不憫に思って忍ばせた経文のご利益から菊についた露がお酒に代わり、その露を舐めたのち、童子が里に戻った時には、すでに700年の歳月が過ぎ去っていたということから、菊の露には不老不死の薬効があるという伝承が伝わった。この伝承を受けて、菊の花に布をかぶせ一晩おき、その布で体を拭くという祭事が伝わっているそうだ。

ところがこの故事に菊を手折るという動作は存在していないのだ。

ということで、ここから私の勝手な解釈を始める。

さてこの句が詠まれた山中温泉の町には白山神社が祭られている。そしてこの神社のご祭神は菊理姫なのだ。くくり姫は国生みの神であるイザナギ、イザナミの2柱の神が口論になったときに現れてその諍いを沈めたとされる神だ。つまり天照大神の誕生前にすでにおられた神ということになる。このことから現代も縁結びの神と呼ばれるのだが、神と神をくくる神なのでその格式は尋常ではない。私はこのことにあやかり、芭蕉は何者かとの縁を切りたくないという思いを、この句に込めたのではないかと思っている。

つまり、菊であらわされているのは菊理姫のことで、手折るという言葉はその神性を否定することではないだろうか、そのことは具体的に何者かとの別れを意味している。では一体誰との別れかといえば、これまで推測してきた萩という存在なのか、あるいはこれまで同行してきた曾良なのか、またはその両方ということも考えられ、この表現からは、どうしてもこの縁を手折りたくないという芭蕉の切ない思いが伝わってくるようだ。

ところで芭蕉はこの地に7日ほど滞在し、湯治を満喫している。私はこの句にある湯の匂いという表現から温かで心身ともに満たされている情景を想像している。それと同時に、芭蕉は心の中で、この状態がこのままいつまでも続いてほしいと切実に願っていたのではないか、この句を詠むとそんな思いがしてならないのだ。