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独立自尊 奥の細道

2024年2月2日gallery,ようこそ,絵本墨絵 俳句

秋の風

これまで奥の細道では3つの句が秋の風という言葉で結ばれていた。私はこれらに対し芭蕉が自らの感情の高ぶりを戒めるために使った言葉ではないかと推察している。

「塚も動け我泣く声は秋の風」 「あかあかと日はつれなくも秋の風」そして前回ご紹介した「石山の石より白し秋の風」といういずれも切ない場面でこの言葉が登場してくる。前回の句も紀行文から読めば那谷寺で詠まれたものとして読まれるべきなのかもしれないが、私の印象では奥の細道には紀行文には表れてこない謎が沢山あると思っている。このことについては、改めて記事にしたいと思っている。

今回は野ざらし紀行でも秋の風という表現を見つけたので紹介したいと思うのだが、やはりいずれの句も大変切ない場面に登場してくる。

まずは、野ざらし紀行の中に「義朝の心に似たり秋の風」という句がある。これは荒木田守武の和歌「月見てや常盤の里へかへるらん義朝殿に似たる秋風」という歌に芭蕉が触発されてできた歌とされる。それによると芭蕉はこの短歌の秋風は何を表現しているのだろうかとの疑問をもち、そこからあらためて芭蕉が俳句として詠み直したようだ。

では、この2つの歌を詠み比べてみると守武の和歌は義朝が月を見て常盤御前のおられる方角を思い、秋風のようにそちらに向かって吹き渡って行きたいという切ない願いを歌った歌ではないかと私は勝手に解釈している。

一方芭蕉はこの歌に対し「義朝の心に似たり秋の風」と呼んだ。なんと守武が詠んだ下の句とは、たった2字しか違いがない、同じ切ない場面ではあるが前者は常盤御前へのこいしい思いと、後者には乱世に対する無常観が感じられる。

この義朝の悲劇について少し触れると平治の乱で敗れた義朝は落ち延びた際、家人の裏切りにあい入浴中の丸裸の状態で打ち取られてしまう。「せめて一本の木刀でもあれば」と悔しがるのだが、武士にとって無抵抗の死は恥辱でしかない、武士の本懐とは打ちてしやまんという思いなのだろうか。このような義朝のたぎる思いを秋の風が鎮めてほしいと芭蕉は願っているようだ。

そして野ざらし紀行にはもう一つ切ない歌が載せられている。

「猿を聞人捨て子に秋の風いかに」という富士川のあたりで捨て子を見て詠んだ歌だそうだ、秋の風の後についた「いかに」という言葉が印象的だ、このような悲惨な場面に対し生者必滅会者定離と簡単に言葉で言い捨てることができるものだろうか。芭蕉の切ない自問が聞こえるようだ。