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今日は好日Vol.2

2024年1月5日gallery,ようこそ,自作俳句絵画 無意識

2023年 5月23日 本当は危険な平和憲法

 

現行の日本国憲法は、戦争放棄を明文化した国際的にもまれな憲法だ。なので徴兵制のある国の人からすれば日本の立場はかなり理解しづらいらしい。特に徴兵制度のある海外の若者たちは関心が高く、外国語が不自由な私はその説明に言葉が出てこない、特に困ったのが自衛隊についての表現だった。

ところで昨日も触れた、総理による核兵器廃絶の訴えがなぜ心に響かないか考えてみた。というのも核兵器に勝者は生まれないにもかかわらずこの兵器による平和維持を望む人は依然と多いからだ。ではこの兵器は国際的にどう思われているのかといえば、やはり大量破壊兵器という人道を無視した兵器という解釈には違いがない。

それでは、この外道な核兵器が公然と認知されているのはなぜか、その理由が東京裁判と言われる極東軍事裁判にあるのではないだろうか。この裁判が公平ではないと言われているのは、ここから始まったことではなく、すでにドイツで始まっていたニュルンベルク裁判で裁判官がすべて、戦勝国から選出されていることから公平さに欠くといわれていたのだ。このことを受け東京裁判では戦勝国以外のインドから判事が選出された、因みにその判事が出した答えはすべて無罪だった。

当時から一方的な裁判と言われていたが、この悪影響が今でも続いている。どのようなことかといえばこの裁判で戦勝国の戦争犯罪は不問とされたことだ。私は、このことが現在も大量破壊兵器の保有を認めることになり、都市空爆などの一般市民への攻撃を軍事行為の一環のように印象付けてしまったのだ。

この裁判が起こる以前は軍事行為と市民への攻撃は国際法によって明確に区別されていたのだが、この裁判を機に戦争は市民の大量虐殺も含まれて当然のようなコンセンサスが出来上がってしまったのだ。このようなことから核兵器は軍事力だという誤った認識がまかり通る様になってしまった。つまり核拡散防止が説得力を持たないのは、このような法的根拠を明確に示せないところにあるのではないだろうか。

それでは私がなぜ戦争そのものを否定する日本国憲法が危険な憲法だということには理由がある。それは戦争に対する認識にある。

確かに宗教的には戦争どころか、いかなる揉め事も認められるものではない、しかしながらそれを受け入れることは人類にとってたやすいものではない、それが果たされるはまさしく神の御技といえるのだ。それほど人類と諍いは切り離すことが出来ない、業で繋がれている、このことは残念ながら国という括りでも何ら変わることがない。このことを受け入れ、人類の犯す罪にせめてものタガを嵌めたが戦争という解決である。なので、この縛りを認めないということは人類を見境の無い殺戮の世界に引き戻すようなものではないだろうか。

このように考えると、戦争を否定した日本国憲法は、国際法の秩序を無視する大変危険な憲法と言わざる負えない。要するにこのような憲法の下では大量破壊兵器削減の根拠を軍事を規定する国際法とすることが出来ないからだ。

さらに言えば、あの裁判でA級戦犯とされた罪とは平和に対する罪である、このことは戦争解決は国際紛争解決の手段として認められる権利を否定することにはならないだろうか。恐ろしいことに平和に対する罪の中には宣戦布告がなかったことも罪に問われることだ。そのため、あの真珠湾攻撃が宣戦布告の1時間前に始まったことを卑劣な戦争犯罪とされているが、今の戦争においてもそのような宣戦布告は履行されているのだろうか。

とはいえこのことを今の自衛隊に当てはめてみると自衛隊の立場はかなり危ういことになる。例えば戦争行為を否定されている日本では、当然相手国に宣戦布告は出来ない。反撃という先制攻撃があり得ないのはこのことからもいえるだろう。さらに軍法を持たない自衛隊は、戦後処理に当たる、このような軍事裁判にすら及ばない可能性がある。もしこのような事情から、自衛隊が軍とは認められず他国の刑法によって裁かれるようなことでもあれば、自衛隊の隊員たちはどのような思いになるのだろうか。あの裁判を悪しき教訓として認識し、国際法に準じる秩序の回復を日本から発信していくことが非道な殺戮兵器を減らし人類に希望をもたらすのではないか。

私はこのような危険性をはらむ憲法9条は、速やかに廃止し、そのうえで自衛隊は国軍として国の防衛のために最大限の力を発揮してもらえるよう法整備を進めるべきだと思っている。