今日は好日Vol.2
2023年 6月2日 お笑いを哲学すると
正直疲れてしまう。とはいえ世の中には意外と、これを対象とした論文があふれていることも興味深い。それほど人間の精神とお笑いには密接な関連があり学問的な興味をそそるのだと思う。私はこれまで、お笑いは精神のカタルシスだと述べてきた、そのことは本音と建前という相反する精神性の内なる葛藤を、他人の前でさらけ出すことで得られる連帯感ではないかと思っている。
そしてそのことを強く表現するために、人間は笑いという非合理的な行動をとる。例えば突然我を忘れて公衆の面前で奇声を上げたり、過呼吸を伴う腹部や顔面の激しい痙攣など、笑いを知らない者にとっては、その場に居合わせた人間たちが、まるで毒でも盛られたかのような危険な状態を示す。そうすることはお笑いの提供者に対する激しい共感を示すことになるのだ。とはいえ普段は世間体という心の底にある意識の話でともすれば、そのような反応を示すことは周りとの社会的な調和を乱す結果になることもあり得る。つまり倫理観や社会性が、その反応にブレーキをかけてしまう場合もありえるからだ。
そのことを示す例が、提供者がよく「ここは笑うところです」というアナウンスをすることで、どっと笑いがおこるという現象を見かける。おそらく会場の聴衆は、話題に反応して良いのか悪いのか判断がつかない場合に、そのような場面が起こるのだと思う。落語の世界では噺の前振りに噺家が世間話を交えて入念に笑いの空気を作っていく、なるべく身近な話題で聴衆とより多くの共感を得ることがこの目的だろうと思う。
ところで、お笑いを哲学のような固い視線で捉えるとどうなるのか、ナンセンスなことだとは思ったが、意外とそのような視点で研究をしようとする方が多いことに今は驚いている、それほどこの世界は魅力的な世界なのだと思う。
哲学といえば、基本的に3つの要素があるそうだ。1つは美学、2つ目は倫理学、3つ目は認識論となる。この笑いに対する私見を述べると、笑いとは美学や倫理学に対する根源的な精神の開放ではないかと思っている。その開放を他者と共有し認識しあうことがお笑いの本質であると思っているのだ。
このため、美学や倫理学に対する反抗のアプローチは多様であることが、お笑いの素地である社会の豊かさを象徴しているはずなのである。となればお笑いの多様性を見ることによって、その社会の窮屈度はより鮮明になるのではないだろうか。お笑いの対象は社会現象であったり、政治などマクロ社会に向けられることもあれば、現在の日本のお笑いが象徴するように超ミクロのテーマが選ばれる場合もある。因みに最近の日本のお笑いを知るために参考にさせて頂いた動画が「ミルクボーイのおかんの好きなあれ」、「パンクブーブー命乞い」だった。私もパンの袋についてるあれに激しく共感してしまうとは、どれほど社会に対し閉塞感を感じているのか思い知らされたのである。